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ジャン=ジャック・ルソーの名言

ジャン=ジャック・ルソー

政治哲学「社会契約論」、教育論「エミール」の著者。ルソーの影響を受けた哲学者としてカントが有名である。また、作家トルストイも青年期にルソーを愛読し、生涯その影響を受けた。

ジャン=ジャック・ルソーは、1712年6月28日、ジュネーヴのグラン・リュ街にて誕生した。父はイザーク・ルソー、母はシュザンヌ・ベルナール[5]。

ルソー家の先祖はパリ近郊モンレリ(英語版)に由来し、1549年にディディエ・ルソーがプロテスタント弾圧から逃れるためにジュネーヴに移住したことに起源がある。ジュネーヴはカルヴァン派のユグノーが構成するプロテスタントの都市共和国であり、当時はまだスイス誓約者同盟に加盟していなかった。

ジュネーヴはルソーの故郷であり続け、自分をジュネーヴ市民として見ていた。

父イザークは陽気で温和な性格をもった時計職人であり、ルソー家が代々営んでいた「時計師」は、当時のジュネーヴでは上位身分であった市民と町民のみに限定される職であった(母方の祖父も時計師であった)。

要するにジャン=ジャックは貧困層ではない中間的な職人階級の家に生まれたのであるが、幸せな家庭環境や安定した人生に恵まれなかった。7月7日、ジャン=ジャックは不幸にも生後9日にして母を喪っている。母シュザンヌ・ベルナールは裕福な一門の出で、賢さと美しさを具えていたと言われている。

ジャン=ジャックは母からこうした美点を受けついで誕生するが、幼いころは病弱であった。病気がちであったことは精神面の敏感さと共に生涯にわたって苦悩の原因になっていく。5年後の1717年にルソー家は上流階級の住む街グラン・リュから庶民の住むサン=ジェルヴェ地区に居を移し、ジャン=ジャックは父方の叔母シュザンヌ・ルソーの養育を受け、父親を手本に文字の読み書きなどを教わりながら育った。

7歳の頃から父とともにかなり高度な読書をおこない、小説やプルタルコスの『英雄伝』などの歴史の書物を読む。この時の体験から、理性よりも感情を重んじる思想の素地が培われた。

1722年、ルソーが10歳のころ、彼の人生は一変する。

父は、ザクセン選帝侯に仕えた元軍人のゴーティエという貴族との喧嘩がもとで、剣を抜いたという一件で告訴され、ジュネーヴから逃亡せねばならぬ仕儀となったのだ。兄は徒弟奉公に出され(後に出奔して行方知れず)、孤児同然となったジャン=ジャックは、母方の叔父である技師ガブリエルによって従兄のアブラハム・ベルナールと共にランベルシェという牧師に預けられたが、ジュネーヴ郊外のボセーで不自由な寄宿生活を送ることになった。

しかし、ルソーにとってここでの暮らしは決してよい生活ではなく、牧師の妹で未婚の40代女性ランベルシェ嬢から身に覚えのない罪で度々折檻もされたという。この時期、不法な支配への反発心とともにルソーのマゾヒズムという性癖が形成された。

1724年秋にジュネーヴに帰ってから司法書記マスロンのもとで書記見習いとなるも長続きせず、1ヶ月半後には、横暴で教育能力のない20歳の彫金師デュマコンのもとで5年契約の徒弟奉公を強いられた。 ルソーは日常的に虐待を受け、次第に虚言を語り、仕事をさぼって悪事や盗みを働く素行不良な非行少年となっていた。ただし、生活環境が悪化して無気力になっていたものの読書の習慣は続いていた。貸本屋で本を借りて読書に耽っては仕事をさぼり、親方に本を取り上げられたり、捨てられたりしながらも読書を続けた。ルソーにとって読書は唯一の逃避だったのである。

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Jean-Jacques Rousseau

ジャン=ジャック・ルソー

哲学者、政治・教育哲学者。
国: ジュネーヴ共和国(現在のスイスの都市)
生: 1712年6月28日
没: 1778年7月2日(享年66)

ジャン=ジャック・ルソーの名言

気軽に約束しない人は、もっとも誠実に約束を守る。

慣習とは反対の道を行け。そうすれば常に物事はうまくいく。

人間は生まれながらにして自由である。しかし、いたるところで鎖につながれている。自分こそが主人だと思っている人も、実は奴隷であることに変わりはない。

持っている金は、自由への手段であり、求めている金とは、隷属への手段である。

誰であれ赤面すればそれは既に罪である。真の潔白とは一切を恥じぬ事である。

自然は決して我々を欺かない。我々自身を欺くのは常に我々である。

政治体というのは、人間の体と同じように、生まれたときから、死に始める。つまりそれ自体が、破滅の原因をもっている。

果実は万人のものであり、土地はだれのものでもないことを忘れるなら、君たちの身の破滅だぞ!

生きるとは呼吸することではない。行動することだ。

私たちは、いわば二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために。

最も長生きした人間とは、最も年を経た人間のことではない。最も人生を楽しんだ人間のことである。

名声は人々のささやきに他ならないが、それはしばしば有害である。

ものを知らない人はよくしゃべり、よく知っている人はあまりしゃべらない。

男は知っていることをしゃべり、女は人に喜ばれることをしゃべる。

良いラブレターを書くには、まず何を言おうとしているのか考えずに書き始めること。そして、何を書いたのかを知ろうとせずに書き終わらなければならない。

良心は精神の声であり、情熱は肉体の声である。

感謝は支払われるべき義務であるが、誰であろうとそれを期待する権利はない。

悔恨の情は、得意の折には熟睡し、失意のときには目を覚ますものである。

節制と労働こそが、人間にとって最良の医者である。労働は食欲を活発にし、節制が過剰に食におぼれるのを防いでくれる。

幸福とは、良い資産、良い料理人、良い消化。

いかなる物でも、自然という造物主の手から出るときは善であり、人間の手に渡って悪となる。

自由なる人々よ、この言葉を忘れるな。我々は自由を得るかも知れない、しかし一度それが失われると取り戻す事はできぬ。

自然に還れ。

ある者は明日に、他の者は来月に、さらに他の者は十年先に希望をかけている。誰一人として、今日に生きようとする者がいない。

ある真実を教えることよりも、いつも真実を見出すにはどうしなければならないかを教えることが問題なのだ。

最も教育された者とは、人生のよいことにも悪いことにも最もよく耐えられる者である。

過ちを犯すことは恥ずべきことではない。むしろその過ちがわかった後も、その過ちを改めようとしないで、繰り返すのは恥ずかしいことだ。

イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民は奴隷となり、無に帰してしまう。

人間をつくるのが理性であるとすれば、人間を導くのは感情である。

他人の好みにかなう妻より、自分の好みにかなう妻を求めよ。

一緒に泣くことほど、人の心を結びつけるものはない。

子供を不幸にする一番確実な方法は、いつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ。

わたしは、真理のために受難するということほど偉大で美しいことを知らない。

下劣な人間は、偉大な人物のあることを決して信じない。

人間的自然の根本は、自分自らを愛することである。

無知は決して悪を生まない。危険な罪悪を生むのはただ誤謬の懸念である。

誤謬(ごびゅう):まちがえること。また、そのまちがい。

人は手に入れているものよりも期待するものを喜ぶ。

私たちは無知によって道に迷うことはない。自分が知っていると信じることによって迷うのだ。

苦しみを味わうことがない人間は、人間愛から生まれる感動も快い同情の喜びも知ることはあるまい。

他人を愛せよ。そうすれば彼らもまた、あなたがたを愛するだろう。彼らの役にたて、そうすれば彼らもあなたがたの役にたつであろう。

人生の最初の四分の一はその使い道もわからないうちに過ぎ去り、最後の四分の一はまたその楽しさを味わえなくなってから過ぎて行く。しかもその間の期間の四分の三は、睡眠、労働、苦痛、束縛、あらゆる種類の苦しみによって費やされる。人生は短い。

ある人の生き方が非合理だといって反対するのは手前勝手なでしゃばりではあるまいか。なぜなら、そのように言うことは、その人の信念確定の方法が自分のそれとは違う、ということを言っていることにすぎないからだ。

学問とはわずかな時の間に、数百千年の人類の経験を受け取ることである。

女性が男性を自由にするということは、それ自体は害悪ではない。これは女性が人類の幸福の為に自然から享けた賜物である。

我々は生まれると競技場に入り、死ぬとそこを去る。その競技用の車をいっそううまく操るすべを学んだとて何になろう。いまとなっては、ただどんなふうに退場したらよいかを考えればよいのだ。老人にもまだ勉強することがあるとすれば、ただひとつ、死ぬことを学ぶべきだ。

教育とは、機械を造る事ではなく、人間を創る事である。

金持ちでも貧乏人でも強い者でも弱い者でも、遊んで暮らしている市民はみんな詐欺師だ。

十歳では菓子に、二十歳では恋人に、三十歳では快楽に、四十歳では野心に、五十歳では貪欲に動かされる。人間はいつになったら、英知のみを追うようになるのだろうか。

恋と同じで、憎悪も人を信じやすくさせる。

人は、実際の恋愛対象よりも、自分で心に描き出した相手の像の方を一層愛する。人がその愛する者を正確にあるがままに見るならば、もはや地上に恋は無くなるだろう。

勇気がなければ幸福は得られない。戦いなしには美徳はありえない。

人は、常に幸福を求めるが、常に幸福に気づかない。

人間が生きている間、決して消え失せることのない唯一の情欲は自愛である。

他人の不幸に同情するのは、自分に無関係だと思えない時だけである。

人生は短い。わずかな時しか生きられないからというよりも、そのわずかな時のあいだにも、私たちは人生を楽しむ時をほとんど持たないからだ。

子供達が父親に結び付けられているのは、自分達を保存するのに父親を必要とする期間だけである。

教育とは自然の性、すなわち天性に従うことでなければならない。国家あるいは社会のためを目標とし、国民や公民になす教育は、人の本性を傷つけるものである。

子どもに純真な心をも持ち続けさせるよい方法は一つしかないと思われる。それは、子どものまわりにいるすべての人が純真なものを尊重し、愛することだ。

理性は独りで歩いてくる、偏見は群れで走ってくる。

人民の自由は、国家の強さに比例する。

洗練された眼差しは、細やかで鋭敏な感性に他ならない。

エミール、幸福にならなければならない。これはあらゆる感覚を持つ存在の目的なのだ。これは自然が私達に感じさせる基本的な欲求であり、決して私達になくならない唯一つの欲求でもある。

拒絶に慣れていない子供は、欲しいものが手に入らないということより拒絶されたことを一層辛く考えることになる。

私達は何事にも刃向かえる。が、好意にだけは反抗できない。

恋する男にとっては、相手がどんな身なりをしていても、そんなことはどうでもいい。相手も彼のことを考えていることがわかればいいのだ。

優雅は美貌と違ってすり切れない。それには生命があり、たえず新しくなる。したがって三十年の結婚生活の後にも、貞淑な妻に優雅ささえあれば、彼女は結婚の最初の日のように夫に気に入られる。

自然を見よ。そして自然が教える道をたどっていけ。自然は絶えず子供を鍛える。

方便の嘘とは、正真正銘の嘘である。というのは、他人とか、あるいは自分の利益のために人を欺くことは、自分の利益を犠牲にしてまで欺くのと同じく、不正だからである。

世界で一番有能な教師よりも、分別のある平凡な父親によってこそ、子供は立派に教育される。

肉体があまり安楽すると、精神が腐敗してくる。

政治とは、支配者と民衆の間に結ばれる単純な契約である。

自由を放棄することは、人間としての資格を放棄することである。人間としての権利を放棄することである。すべてを放棄する人にとっては、いかなる補償もありえない。

– END –