INPACT シャルル・ド・モンテスキュー

シャルル・ド・モンテスキューの名言

シャルル・ド・モンテスキュー

英国の政治に影響を受け、フランス絶対王政を批判し、均衡と抑制による権力分立制の基礎を築いた。権力を分割しない統治形態による法は、政治的自由を保障しないと考え、著作「法の精神」の中で、政治権力を立法・行政・司法に三分割する三権分立論を提唱した。

フランス南西部にあるボルドー近郊で生まれた。彼が7歳の時、母が逝去。母の遺産を継承し、ラ・ブレード男爵となる。ボルドー大学法学部卒業後、1709年からパリに遊学。1713年末、父の訃報により帰郷する。

翌年、25歳でボルドー高等法院の参事官となる。1716年、伯父の死により、モンテスキュー男爵の爵位とボルドー高等法院副院長の官職を継承する。

しかし、実務面には無関心で、1721年には、匿名で『ペルシア人の手紙(英語版、フランス語版)』を出版。1726年、37歳で、ボルドー高等法 院副院長の官職を辞職。

以後、学究生活に入る。1728年1月、アカデミー・フランセーズの会員に選出された直後、4月から諸国遍歴の旅に出る。1731年に祖国であるフランスに帰国。1734年、『ローマ人盛衰原因論』、1748年、『法の精神』を出版。

イギリスの政治に影響を受け、フランス絶対王政を批判し、均衡と抑制による権力分立制の基礎を築いた。なお、イギリス滞在の間にフリーメーソンとなった。

法とは、「事物の本性に由来する必然的な関係」であると定義し、権力を分割しない統治形態による法からは、政治的自由が保障されないと考え、執筆に20年かけたと言われる自身の著作『法の精神』の中で、政治権力を立法・行政・司法に三分割する「三権分立論」(「権力分立論」)を提唱した。

晩年は、視力の減退に悩まされた。そんな中、著作『百科全書』の為に「趣味論」の執筆に取り組んだが、完成することは無く1755年2月10日にパリで逝去した。


Montesquieu

シャルル・ド・モンテスキュー

哲学者。
国: フランス(ボルドー近郊)
生: 1689年1月18日
没: 1755年2月10日(享年66)

シャルル・ド・モンテスキューの名言

多くの場合、成功は成功するまでの所要時間を知っているか否かにかかっている。

偉大なことを成し遂げる人は、つねに大胆な冒険者である。

ただ幸福になりたいと望むだけなら簡単だ。しかし他人よりも幸せになりたいというのならば、それは困難だ。我々は、他人はみんな実際以上に幸福だと思っているからだ。

才能とは、神からひそかに与えられ、しかも我々がそれとは知らずに明るみに出す、授かり物である。

私たちは三つの教育を受ける。一つは両親から。もう一つは教師から。残りの一つは社会から教えられる。そしてこの三番目は、初めの二つの教えにすべて矛盾するものである。

自由とは、法の許す限りにおいて行動する権利である。

宗教を愛し、それを守っていくには、それを守らぬ者を憎んだり、迫害したりする必要はない。

真に偉大な人間になるためには、人々の上に立つのではなく、彼らと共に立たなければならない。

真に知的な人は、他の人が知識として有しているだけのことを、身体で感得している。

人間は考えることが少なければ少ないほど余計にしゃべる。

友情とは、誰かに小さな親切をしてやり、お返しに大きな親切を期待する契約である。

人間は死を嘆くのではなく、誕生を嘆くべきだろう。

法とは、最も広い意味にとれば、事物の本性に由来する必然的な関係である。

自然状態においては、人間は確かに平等の中に生れるが、そこにとどまることはできないであろう。

世の中で成功を収めるには、馬鹿のように見せかけ、利口に行動することである。

一時間の読書をもってしても和らげることのできない悩みの種に、私はお目にかかったことがない。

愚か者は、まじめさを盾にする。

自分で実行できることは、決して他人の手を煩わすな。

少しを知るために、多くを学んでおかねばならぬ。

恋愛は仕事のない人々の仕事である。

制度を作るのは共和国の統領だが、後にはその制度が共和国の統領をつくる。

雄弁家はその深遠さにおいて足りないところを話の長さで補う。

– END –