INPACT フランシス・ベーコンの名言

フランシス・ベーコンの名言

フランシス・ベーコン

12歳でケンブリッジ大学に入学。その後、法律を学び、23歳で国会議員となる。彼は、「知識は力なり」という言葉とともに知られ、学問の壮大な体系化を構想していた。体系化の構想はヴォルテールやルソーなどのフランス百科全書派にも引き継がれた。

エリザベス1世の国璽尚書を務めたニコラス・ベーコンの子。12歳でケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学[1]。その後、ロンドンのグレイ法曹院で法律を学ぶ。18歳で父を亡くした後、23歳で国会議員となり、当時、エリザベス女王の寵臣だったエセックス伯の腹心となる。1601年にエセックス伯が反乱を起こすと法律家として告発し、処刑後は事件の全貌を明らかにする公開書の作成にあたった。

エリザベス朝期およびジェームズ1世期の初期には栄達に恵まれず、この時期の1605年に『学問の進歩』を出版する。1606年、45歳のときに14歳の少女と再婚、1607年に法務次長になったことを皮切りに順調に栄達し、1617年に国璽尚書、翌年には大法官となる。1620年、一時期だがトマス・ホッブズが彼の秘書を務めたことがある。1621年、訴訟関係者からわいろを受け取ったという告発を受けた。彼はこの告発を認めたが、判決には影響を与えていないと弁護した。当時、裁判官が贈物を受け取るのは普通のことであり、この告発には党派争いが絡んでいた。結果として失脚し、4日間ではあるが、ロンドン塔に閉じ込められもした。隠退生活の中、鶏に雪を詰め込んで冷凍の実験を行った際に悪寒にかかり、それがもとで亡くなった。

「知識は力なり」(Ipsa scientia potestas est)という言葉とともに知られる。独力では果たせなかったものの学問の壮大な体系化を構想していた。体系化の構想はフランス百科全書派にも引き継がれる。

なお、主な著作の『ノヴム・オルガヌム』の影響もあり、イギリスの聾教育が始まっている。聾学校を最初に設立した人物ではなく、聾教育を最初に始めた人物であるとされている。

ウィリアム・シェイクスピアと同時代人であり、シェイクスピアはベーコンのペンネームだという説を唱える者もいる(シェイクスピア別人説の項を参照)。

ヴォルテールは、フランシス・ベーコンについて、『ノヴム・オルガヌム』などの著作を念頭に、「経験哲学の祖」として賞賛している。


Francis Bacon

フランシス・ベーコン

哲学者、神学者、法学者。
国: 英国
生: 1561年1月22日
没: 1626年4月9日(享年65)

フランシス・ベーコンの名言

知識は力なり。

賢者はチャンスを見つけるよりも、みずからチャンスを創りだす。

名声は炎のようなものだ。一度つければ、保つのは簡単だが、もし消してしまえば、もう一度燃え上がらせるのは難しい。

恋をして、しかも賢くあることは不可能だ。

読むことは人を豊かにし、話すことは人を機敏にし、書くことは人を確かにする。

沈黙は愚者たちの美徳である。

海のほか何も見えないときに、陸地がないと考えるのは、けっしてすぐれた探検家ではない。

生来の才能とは自然の植物のようなものである。研鑚によって余計なものを刈り取らなければならない。

最上の証明とは経験である。

死は我々の友である。死を受け入れる用意の出来ていないものは、何かを心得ているとはいえない。

希望は朝食としてはよいものだが、夕食としてはよくない。

慈悲にはしすぎるということがない。

復讐する時、人間はその仇敵と同列である。しかし、許す時、彼は仇敵よりも上にある。

私たちの人間性は、私たちの内部に動く神性を除くと、貧弱なものである。

すべて優れた美には、その釣り合いの中にいくらか奇異なものが含まれているものである。

ものごとは確信を持って始めると、疑惑に包まれて終わるのがオチである。しかし初めに疑ってかかり、じっくりそれに耐えれば、最後は確信に満ちたものになる。

読書は、論争のためではなく、そのまま信じ込むためでもなく、講演の話題探しでもない。それは、熟考のためのものなのだ。

もしお金を汝の召使いとしなければ、お金は汝の主人となるだろう。

金はこやしのようなもので、撒かなければ役に立たない。

親の喜びはひそかなものである。その悲しみや不安もまた同じだ。

人生は道路のようなものだ。一番の近道は、たいてい一番悪い道だ。

大衆に役立つ最上の仕事や功績は、独裁者か、あるいは子供のない男によってなされる。

高位にある人間は、三重に奴隷である。すなわち、君主または国家の奴隷であり、名声の奴隷であり、仕事の奴隷である。

家を建てるのは住むためで、人に見せるためではない。

学ぶのに、時間を費やしすぎるのは、怠惰である。

怠惰(たいだ):なまけること。なまけてだらしないこと。また、そのさま。

人間は自分の知っている以外のものではない。

説き伏せるには大胆な人を、説き勧めるには話のうまい人を、調査や観察には巧妙な人を、おいそれとは片づかない仕事には強情な一筋縄では行かない人間を用いるがよい。

最高の孤独は、ひとりも親友がいないことだ。親友がいなければ世界は荒野に過ぎない。

飲食、睡眠、運動の時間に何も考えず快活なのは、最良の長寿法のひとつである。

青年たちは判断するよりも発明すること、評議するよりも実行すること、決まった仕事より新しい企てに適している。

己自身を熱愛する人間は実は公共の敵である。

平和は戦争よりもよい。というのは、平時において息子たちは父親たちを埋葬し、戦時において父親たちが息子たちを埋葬するからである。

高みにのぼる人は、皆らせん階段を使う。

子供は苦労を和らげる。しかし不幸を一段とつらいものにする。子供は人生の煩いを増す。しかし、死の思いを和らげる。

富は費消するためにある。費消する目的は、名誉と善行である。

費消(ヒショウ):金銭や物品などを使い果たすこと。「

宗教は生活の腐敗を防ぐべき香料である。

富を軽蔑する、という人間をあまり信じるな。富を得ることに絶望した者が富を軽蔑するのだ。そして、こういう人間がたまたま富を得ると、何よりも始末が悪い。

他の人に賛成するには、やはり自分の意見をいくらか加えるのがよい方針である。

過ぎ去ったものは、もはや再び帰らない。賢者は現在と未来について考えるだけで手一杯であるから、過ぎ去った事柄をくよくよ考えている暇がない。

ある人が嘘をつくということを考えてみれば、それは、その人が神に対しては大胆であり、人間に対しては卑怯である、ということにほかならない。

嫉妬は常に他人との比較においてであり、比較のないところには嫉妬はない。

若い時は一日は短く一年は長い。年をとると一年は短く一日は長い。

ある本はその味を試み、ある本は呑み込み、少数のある本はよくかんで消化すべきである。

人間は、ある意見を、そうだと思いこむと、すべての事柄をその意見にあわせ、その意見が正当であると主張するのに、都合がいいように寄せ集めるものだ。

害をなすのは、心を素通りする虚偽ではなく、心の中に沈んで居座る虚偽である。

虚偽(きょぎ):真実ではないのに、真実のように見せかけること。うそ。いつわり。「

善がなければ、人間はただの虫けらにすぎないし、うるさい有害な劣悪な動物にとどまろう。

結婚のための愛は人間をつくるが、友情の愛は人間を完成する。

悪賢い人は勉強を軽蔑し、単純な人は勉強を称賛し、賢い人は勉強を利用する。

空威張りする人間は賢者に軽蔑され、愚者に感嘆され、寄生的人間にたてまつられ、彼ら自身の高慢心の奴隷となる。

外からの出来事が人の運の良し悪しに大いに関係することは確かだ。これには、他人の好意、機会、関係者の死、その人の美徳ゆえの機会などが入る。だが、自分の運をどう発展させていくかの問題は、その人の手中にしかない。

徳性は宝石のようなもので、あっさりした台にはめこまれたものが最上である。

徳性(トクセイ):徳義をわきまえた立派な品性。道徳的意識。道徳心。

大胆な人間の適切な用い方は、これを頭目として指揮させず、部下として他の指図を受けさせることにある。

われわれは自分の言葉を統御していると考えているが、しかし、われわれが言葉によって支配され統御されているのである。

– END –