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西郷隆盛の名言

西郷隆盛


1828年1月23日(文政10年12月7日)、薩摩国鹿児島城下加治屋町(現:鹿児島市加治屋町)に下級藩士の長男として生まれる。

11歳のときに友人の喧嘩の仲裁に入り、右腕の神経を刀で切られる。一命は取りとめたが刀を握れなくなり、学問で身を立てることを志す。

1851年、島津斉彬(1809~1858)が薩摩藩主になる。西郷は1854年に斉彬の御庭方役となり、当代一の開明派大名であった斉彬から直接教えを受ける。

1853年7月、アメリカ海軍の軍人ペリー(1794~1858)が率いる4隻の艦隊(黒船)が浦賀に入港し、開国の要求。外国人を実力行使で排斥しようという攘夷問題が起き始める。

1856年、第13代将軍・徳川家定と斉彬の養女・篤姫が結婚。斉彬の考えは、篤姫を通じて一橋家の徳川慶喜を第14代将軍にし、幕府を中心とした中央集権体制を作り、開国して富国強兵をはかり、露英仏などに対処しようとするもので、日中韓同盟をも視野にいれた壮大な計画であった。西郷はその手足となって活動する。

1858年、島津斉彬が急逝。斉彬の弟、島津久光の子・忠義が家督相続し、島津久光が後見人となる。西郷は京都で斉彬の訃報を聞き、殉死しようとするも尊皇攘夷派の僧侶・月照らに説得されて、斉彬の遺志を継ぐことを決意。

1859年、幕府の目から隠すため西郷を奄美大島に潜居させる。西郷は島妻を娶り、1860年(32歳)には長男・菊次郎が誕生した。

1862年、西郷は復帰。しかし、事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、沖永良部島へ流罪に遭う。しかし、家老・小松帯刀や大久保利通の後押しで1864年に西郷は復帰。

1866年、坂本龍馬の斡旋により、長州藩士、桂小五郎(木戸孝允)と薩長提携六ヶ条の密約を交わす(薩長同盟)。

1867年、徳川慶喜は大政奉還を建白。しかし、1868年に鳥羽・伏見にて旧幕府軍と薩摩藩との間で戦端が開かれ、戊辰戦争へと拡大。

西郷は東海道先鋒軍の司令官に任じられると、東海道の要衝・箱根を占領。その後、江戸に入り、江戸城総攻撃の直前に勝海舟と会談、徳川処分案を預かると総攻撃中止を命令し、無血開城が行なわれる。

その後、薩摩へ帰郷したが、1871年(明治4年)に参議として新政府に復職。陸軍大将などを兼務。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、大久保利通らと対立。再び鹿児島に戻り、私学校での教育に専念する。

1877年(明治10年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃(1877年9月24日)。享年49歳。

西郷は死後、官位をとりあげられ、賊軍の将として遇された。しかし、西郷の人柄を愛した明治天皇の意向などもあり、1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位を追贈される。

Takamori Saigō

西郷隆盛


日本の武士(薩摩藩士)、軍人、政治家。大久保利通、木戸孝允とともに「維新の三傑」と称される。
国: 日本・薩摩藩(現在の鹿児島市加治屋町)
生: 1828年1月23日
没: 1877年9月24日(享年49)

西郷隆盛の名言

命もいらぬ、名もいらぬ、官位も金もいらぬというような人物は処理に困るものである。このような手に負えない人物でなければ、困難を共にして、国家の大業を成し遂げることはできない。

過ちを改めるには、自分が間違いを犯したと自覚すれば、それでよい。そのことをさっぱり思いすてて、ただちに一歩を踏み出すことが大事である。
過ちを犯したことを悔やんで、あれこれと取りつくろおうと心配するのは、たとえば茶碗を割って、そのかけらを集めて合わせてみるようなもので、何の役にも立たぬことである。

自分を愛する(甘やかす)ことは、最もよくないことである。修業ができないのも、ことが成就できないのも、過ちを改めることができないのも、自分の功績を誇って驕り高ぶるのも、みな自分を愛することから生ずることであり、決して自分を甘やかす心を持ってはならない。

政治で特に大切なことは、教育文化を盛んにし、軍備を充実させ、農業を奨励するという三つである。

文明というのは、道理にかなったことが広く行われることを褒め称えていう言葉であって、宮殿が荘厳であるとか、衣服がきらびやかだとかといった、外観の華やかさをいうものではない。

国が辱めを受けるようなことがあったら、たとえ国が倒れようとも、正道を踏んで道義を尽くすのが政府本来の仕事である。
戦の一字を恐れ、政府本来の使命を果たさないのなら、商法支配所といった商いの元締めというようなもので、もはや政府ではなくなってしまうだろう。

人を言いくるめて、陰でこそこそ事を企てる者は、たとえそれがうまくいったとしても、物事を見抜く力のある者から見れば、醜いことこの上もない。
人に提言するときは、公平かつ誠実でなければならない。公平でなければ、すぐれた人の心をつかむことはできないものだ。

今の人は、才能や知識があれば、事業というのは思いのままにできると思っているが、才能にまかせて行うことは、危なっかしくて見ておられない。
しっかりした内容があってこそ物事は立派に行われるものだ。

物事に取り組む際、自分の思慮の浅さを心配することはない。
およそ思慮というものは、黙って座り、静かに思いをめぐらしているときにすべきことである。そのようにすれば、有事のときには、十のうち八、九は実行されるものだ。

どんなに制度や方法を論議しても、その適任者がいなければうまく行われない。その人あって初めてその方法が行われるのだから、人こそが第一の宝であって、自らがそういう立派な人物になろうとする心がけが大事なのだ。

策略は日常的にすることではない。はかりごとをめぐらしてやったことは、あとから見ると善くないことがはっきりしていて、必ず後悔するものである。

人の意表をつくようなことをして、一時的にいい気分に浸るのは、未熟者のすることで、戒めなければならないことだ。

人が踏み行うべき道を実践する者には、困難な苦しいことはつきものであるから、どんな難しい場面に立っても、そのことがうまくいくかどうか、その身が生きるか死ぬかといったことなどどうでもいいことなのだ。
物事をなすには上手下手があり、物によってはよくできる人、あまりできない人もある。そのことに動揺する人もあろうが、天の道を実践するという点では上手下手もなく、できないという人もないものなのだ。
だから、ひたすら道を行い、道を楽しみ、もし困難に遭い、それを乗り切ろうと思うならば、ますますその道を実践し楽しむという心を持つがいい。

正しい道を踏み、国とともに倒れてもよいというほどの精神がなければ、外国との交際を成し遂げることはできない。
外国の強大なことに恐れをなし縮こまり、ただ円満に事を収めることを主として、自国の真意を曲げてまで、その国のいいなりになるのなら、軽蔑や侮りを受け、親しい交わりがかえって破れ、しまいにはその国に制圧されるに至るであろう。

国民の上に立つ者は、いつも心を慎み、普段の行いを正しくし、驕りや贅沢を戒め、つつましくすることに努め、仕事に励んで人々の手本となり、国民がその仕事ぶりや生活を気の毒に思うくらいでなければ、政府の命令は行われにくい。

広く諸外国の制度を取り入れ、文明開化をめざして進もうと思うならば、まず我が国の本体をよくわきまえ、道徳心を高めることに努め、そのうえで、徐々に外国の長所を取り入れるべきである。
ただみだりに模倣すると、国体は衰え、徳も廃れて、救いようがなくなってしまい、結局は外国の支配を受けるようなってしまうのである。

人が踏み行うべき道は、この天地のおのずからなる道理であるから、学問の道は敬天愛人(天を敬い人を愛する)を目的とし、自分の修養には、つねに己れに克つことを心がけねばならない。
己れに克つための極意は、論語にある「意なし、必なし、固なし、我なし」(主観だけで判断しない。無理押しをしない。固執しない。我を通さない)ということだ。

常備する兵数についても、会計の制限の中で対処すべきで、虚勢を張ってむやみに兵隊を増やすことなど決してしてはいけない。
兵士の心を奮い立たせて、すぐれた軍隊をつくりあげれば、たとえ兵の数は少なくても、外国との折衝は堂々として、あなどりを受けるようなことはないであろう。

自分に克つには、あらゆる事柄を前にして、はじめて自分に克とうとしても、そうやすやすとはできないものだ。ふだんからその心がけを持って、自分に克てるようにしておかなければならない。

人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、自分の誠を尽くし、人を咎めたりせず、自分の真心が不足していることを認識すべきなのだ。

正論では革命をおこせない。革命をおこすものは僻論である。
※僻論(へきろん)とは、偏っていて道理に合わない論のこと

人が踏み行うべき道を実践する者が、世間の人がこぞってそしっても決して不満をいわず、世間の人がこぞってほめても自分に満足しないのは、信念が厚いからである。

聖人や賢人になろうとする志がなく、昔の人が行った史実をみて、とてもこのようなことは自分にはできないというような心であったら、戦いを前に逃げるよりも、はるかに卑怯なことだ。

過去の功績のご褒美として役職につけるのは、善くないことの第一である。功績のある人には俸給をあたえて賞し、役職はそれにふさわしい人物にあたえよ。

何度も何度もつらく苦しい経験をしてこそ、人の志は初めて堅くなるのだ。真の男は玉となって砕けることを本懐とし、志を曲げて瓦となって生き長らえることを恥とせよ。
我が家の遺訓。それは子孫のために良い田を買わない、すなわち財産を残さないということだ。

主君への忠義と親への孝行、他人にめぐみいつくしむという徳目の実践を促すことこそ、政治の基本である。

税を軽くして国民生活を豊かにすれば、国力を養うことになる。だから国が多くの課題を抱え、財政の不足で苦しくなったとしても、税の定まった制度をしっかり守り、政府や上層階級が損を我慢して、下層階級の人々を苦しめてはならない。

上に立つ者が下の者に対して自分の利益を争い求め、正しい道を忘れるとき、下の者もみなこれにならい、人の心は財欲にはしり、日に日に卑しく、節義廉恥の志を失い、親子兄弟の間ですら財産を争い互いに敵視するようになるのだ。このようになったら何をもって国を維持することができようか。

世間の人がいう機会とは、たいてい思いがけずに得た幸運のことを指している。しかし、真の機会というのは道理に適い、時の勢いを正しく把握して行動する場合のことだ。
かねて天下国家を憂える真心が厚くないのに、ただ時の弾みに乗って成功した事業は、決して長続きはしないものだ。

物事を成そうとの意気込みを広く持つ者にとって、もっとも憂えるべきことは自分のことをのみはかり、けちで低俗な生活に安んじ、昔の人を手本として、自分からそうなろうと修業をしようとしないことだ。

人材を採用するとき、君子(徳行の備わった人)と小人(徳のない人)との区別を厳格にし過ぎると、かえって害を引き起こすものである。というのは、世の中で十人のうち七、八人までは小人であるから、よくこのような小人の長所をとり入れ、これを下役に用い、その力を発揮させるのがよい。

小人は己を利せんと欲し、君子は民を利せんと欲す。己を利する者は私、民を利する者は公なり。公なる者は栄え、私なる者は亡ぶ。

誠の心がないのに世間の人から誉められるのは偶然の幸運に過ぎない。誠の心が厚ければ、たとえその当時に知る人がなくても、後の世に必ず理解してくれる人があらわれるものだ。

西郷先生に従って、犬を走らせて兎を追い、山谷をめぐり歩いて終日狩りをして過ごし、一軒の農家に宿を借り、風呂から上がって、爽快きわまりないといったご様子で、ゆったりと、君子の心はつねにこのようにさわやかなものであろうと思う、と言われた。

自分の身を慎み、心を正して、君子の体を備えていても、事にあたって、正しく対処できない人は、木の人形と同じだ。

賢人がすべての役人を統轄し、政権が一つの方針に進み、国の体制が一つにまとまらなければ、たとえ有能な人物を登用し、自由に進言できるようにして、多くの人の考えを取り入れるにしても、どれを取捨するのか一定の方針がなくては、行うことは雑でまとまりがなく、とても成功どころではない。

思い切ってやりなさい。責任は私がとる。

大きなことでも、小さなことでも、道理にかなった正道を踏み、真心を尽くし、決して策略を用いてはならない。

人間の知恵を開発するということは、愛国の心、忠孝の心を開くことなのだ。国に尽くし、家のために勤めるという道が明らかであれば、すべての事業は前進するであろう。

会計出納はすべての制度の基礎である。国家事業はこれによって成り立ち、国家運営の最も重要なことであるから、慎重にしなければならない。

昔から、主君と臣下が共に自分は完全だと思っているような世に、よい政治が行われたという例はない。
自分は完全な人間ではないと考えるからこそ、下々の言葉も聞き入れることができる。自分が完全だと思っているとき、人からその非を指摘されるとすぐに怒るから、賢人や君子も、そのような人を助けようとはしないのである。

人が踏み行うべき道は、この天地のおのずからなる道理であり、人はこれにのっとって実践すべきものであるから、何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。
天は他人も自分も区別なく愛されるものであるから、自分を愛する心をもって他人をも愛することが肝要である。

人が踏み行うべき道を実践するのに、身分が尊いか卑しかなどといったことはまったく関係がないことだ。

普段から踏み行うべき道の実践を心がけていない人は、大事に直面すると狼狽し、正しく対処できないものだ。

漢学を勉強した者は、ますます漢書から道を学ぶのがよい。人が踏み行うべき道は、この天地のおのずからなる道理であるから、東洋・西洋の区別はないのである。
もしも現在の万国対峙の形勢について知りたいと思うならば、漢書の「春秋左氏伝」を熟読し、さらに「孫子」で補えばよい。当時の形勢も今の情勢とほとんど大差ないだろう。

もうここらでよか

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