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アインシュタインの名言

アルベルト・アインシュタイン

1879年3月14日、ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州ウルム市のユダヤ人家庭に生まれる。翌年、家族はミュンヘンに引っ越し、父と叔父が電気機器を製造する会社を設立した。

アインシュタインは5歳頃まであまり言葉を話さなかったという。5歳のときに父親からもらった方位磁針が自然界の仕組みに対して興味を持つきっかけとなった。

9歳のときにピタゴラスの定理の存在を知り、自力で定理を証明。12歳のときに叔父からユークリッド幾何学の本をもらい独習。微分学と積分学もこの当時に独学で習得。同じ頃、天文学の存在を知り、物理学にも関心を示すようになった。

1896年(17歳)、スイスのチューリッヒ連邦工科大学へ入学し、物理学を専攻。彼は教師には反抗的で、授業をよく休んだという。

1900年(21歳)に工科大学を卒業したが、大学の物理学部長と不仲であったために、大学の助手にはなれず、保険外交員、家庭教師のアルバイトなどをしながら論文の執筆に取り組む。

1901年(22歳)、スイス国籍を取得。翌年、スイス特許庁に就職、好きな物理学に取り組む時間を得る。24歳で結婚し、翌年には長男を授かる。

1905年(26歳)、アインシュタインは「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関連する五つの重要な論文を立て続けに発表。バスの乗車中にベルンの時計台の針が不動に見えることから着想した「特殊相対性理論」は当初、周囲の理解を得られなかった。

1909年(30歳)、特許局を辞職し、チューリッヒ大学の助教授となる。翌年、プラハ大学の教授となり、次男も誕生。1912年にチューリッヒ連邦工科大学の教授に就任。

1913年、プロイセン科学アカデミーの会員となり、アインシュタインはベルリンに移住するが、不仲状態にあった妻は子供を連れてチューリッヒに戻り、別居状態となる。

1916年(37歳)、一般相対性理論を発表。この理論には星の重力により光が曲げられるという予言も含まれていた(後に実証される)。

1919年(40歳)、妻と離婚し、いとこのエルザと再婚。

1922年11月、日本に来日したアインシュタインは43日間滞在し、大正天皇に謁見。また、日本へ向かう最中、ノーベル物理学賞受賞の知らせを受けている。

1932年(53歳)、アメリカへ3度目の訪問をすべくドイツを発つ。しかし、翌年にはヒトラー率いるナチスが政権を獲得。ユダヤ人への迫害が日増しに激しくなり、アインシュタインがドイツに戻ることはなかった。

1939年、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト宛ての、原子力とその軍事利用の可能性に触れた手紙に署名。

1940年(61歳)、アメリカ国籍を取得。1943年にアメリカ海軍省兵器局の顧問に就任。魚雷の起爆装置の改善に尽力。

1945年、広島市への原子爆弾投下報道に衝撃を受ける。アメリカは戦勝国となったが、アインシュタインは「我々は戦いには勝利したが、平和まで勝ち取ったわけではない」と演説。

1955年4月11日、核兵器の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを世界各国に訴える内容のラッセル=アインシュタイン宣言に署名。4月13日、心臓付近の痛みに倒れ、入院するも手術を拒否。病院でも研究を続けるため用具を持って来るよう伝えていたが、4月18日、アインシュタインは76歳の生涯を終える。

Albert Einstein

アルベルト・アインシュタイン


ドイツ出身の理論物理学者。20世紀最大の物理学者、現代物理学の父とも称される。
国: ドイツ出身、国籍はスイス、アメリカなど
生: 1879年3月14日
没: 1955年4月18日(享年76)

アインシュタインの名言

人の価値とは、その人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる。

6歳の子供に説明できなければ、理解したとは言えない

すべての宗教、芸術、科学は、同じ一つの木の枝である

科学はすばらしいものだ。もし生活の糧をそこから得る必要がないのなら。

困難の中に、機会がある。

私は、先のことなど考えたことがありません。すぐに来てしまうのですから

情報は知識にあらず。

人間性について絶望してはいけません。なぜなら、私たちは人間なのですから。

正規の教育を受けて好奇心を失わない子供がいたら、それは奇跡だ。

ある年齢を過ぎたら、読書は精神をクリエイティブな探求から遠ざける。本をたくさん読みすぎて、自分自身の脳を使っていない人は、怠惰な思考習慣に陥る

たとえ国家が要求しても良心に反することをしてはいけない。

過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望をもつ。大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないことである。

挫折を経験した事がない者は、何も新しい事に挑戦したことが無いということだ。

自分自身の目で見、自分自身の心で感じる人は、とても少ない。

真実とは、経験という試練に耐え得るもののことである。

人生とは自転車のようなものだ。倒れないようにするには走らなければならない。

誰かの為に生きてこそ、人生には価値がある。

この世は危険なところだ。悪いことをする人がいるためではなく、それを見ながら、何もしない人がいるためだ。

愛は、義務より良い教師である。

学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるか思い知らされる。自分の無知に気づけば気づくほど、より一層学びたくなる。

私には特別な才能などありません。ただ、ものすごく好奇心が強いだけです。

手段の完璧さと、目的の混乱。この2つが、私達の主な問題に見える。

神の前において我々は平等に賢く、平等に愚かである。

人生には、二つの道しかない。一つは、奇跡などまったく存在しないかのように生きること。もう一つは、すべてが奇跡であるかのように生きることだ。

男は結婚するとき、女が変わらないことを望む。女は結婚するとき、男が変わることを望む。お互いに失望することは不可避だ。

シンプルで控えめな生き方が、だれにとっても、体にも、心にも、最善であると信じています。

宇宙について最も理解しがたいことは、それが理解可能だということである。

愚者と天才の違いといえば、天才には限度があるということだ。

私の学習を妨げた唯一のものは、私が受けた教育である。

宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教は盲目である。

人が恋に落ちるのは、万有引力のせいではない。

成功という理想は、そろそろ奉仕という理想に取って替わられてしかるべき時だ

知識人は問題を解決し、天才は問題を未然に防ぐ。

ものごとはできるかぎりシンプルにすべきだ。しかし、シンプルすぎてもいけない。

可愛い女の子と一時間一緒にいると、一分しか経っていないように思える。熱いストーブの上に一分座らせられたら、どんな一時間よりも長いはずだ。相対性とはそれである。

空想は知識より重要である。知識には限界がある。想像力は世界を包み込む。

私は、それほど賢くはありません。ただ、人より長く一つのことと付き合ってきただけなのです。

常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。

成功者になろうとするのではなく、むしろ価値のある人間になろうとしなさい

同じことを繰り返しながら、違う結果を望むこと、それを狂気という。

無限なものは二つあります。宇宙と人間の愚かさ。前者については断言できませんが。

優れた科学者を生み出すのは知性だと人は言う。彼らは間違っている。それは人格である。

この諺には、真実がある。人に対して正しく賢明な助言をすることはできる。しかし、自分が正しく賢明に振る舞うことはむずかしい。

何かを学ぶためには、自分で体験する以上にいい方法はない。

大切なのは、自問自答し続けることである。

兵役を指名された人の2%が戦争拒否を声明すれば、政府は無力となります。なぜなら、どの国もその2%を越える人を収容する刑務所のスペースがないからです。

どうして自分を責めるんですか?他人がちゃんと必要な時に責めてくれるんだからいいじゃないですか。

教えるということは、こちらが差し出したものがつらい義務ではなく貴重な贈り物だと感じられるようなことであるべきです。

知的な馬鹿は、物事を複雑にする傾向があります。それとは反対の方向に進むためには、少しの才能と多くの勇気が必要です。

異性に心を奪われることは、大きな喜びであり、必要不可欠なことです。しかし、それが人生の中心事になってはいけません。もしそうなったら、人は道を見失ってしまうでしょう。

自分自身のことについて誠実でない人間は、他人から重んじられる資格はない。

蝶はモグラではない。でも、そのことを残念がる蝶はいないだろう。

一見して人生には何の意味もない。しかし一つの意味もないということはあり得ない。

神はいつでも公平に機会を与えてくださる。

天才とは努力する凡才のことである。

一見して馬鹿げていないアイデアは、見込みがない。

大切なのは、疑問を持ち続けることだ。神聖な好奇心を失ってはならない。

普通と言われる人生を送る人間なんて、一人としていやしない。いたらお目にかかりたいものだ。

– END –