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チャップリンの名言

チャップリン

1889年4月16日、ロンドンに生まれる。父と母はともにミュージック・ホールの俳優であったが、チャップリンが1歳のときに両親は離婚。母のもとで育てられる。

5歳のとき、母が喉をつぶし、舞台に立つことができなくなる。一家は貧窮生活に陥り、チャップリンが7歳のころに母は精神に異常をきたし施設に収容される。

チャップリンは4歳違いの異父兄と貧民院や孤児学校を渡り歩き、生活のために床屋、印刷工、ガラス職人、新聞の売り子など、様々な仕事に就く。その傍ら俳優斡旋所に通い、1899年に木靴ダンスの一座に加わった。

1908年(19歳)、名門劇団に入り、一座の若手看板俳優となる。

1913年(24歳)、アメリカ巡業の際に、映画プロデューサーの目にとまり、翌年映画デビュー。チャップリンは映画2作目で山高帽に窮屈な上着、だぶだぶのズボンにドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装をし、以降この姿がチャップリンのトレードマークとなった。

1936年(47歳)に機械文明と資本主義を批判した『モダン・タイムス』、1940年にドイツのナチス党を批判した『独裁者』を発表。これらは政治的メッセージが強いと受け止められ、欧米や日本などの鋭進的な左右両派から突き上げが激しくなっていく。

1945年(56歳)、第二次世界大戦後、東側諸国との冷戦が始まった米国でチャップリンの作風が共産主義に理解を示していると非難される(赤狩り)。

1952年(63歳)、ロンドンに向かう船の途中、アメリカから国外追放命令を受ける。チャップリンはスイスのアメリカ領事館で再入国許可証を返還。アメリカと決別する。

アメリカを去ったチャップリンは、映画への出演も少なくなり、スイスのブドウ畑を臨む邸宅に移り住み、妻や8人の子供たちと幸せな晩年を送る。

1972年(83歳)、アメリカのアカデミー賞名誉賞に選ばれ、20年ぶりにアメリカの地を踏む。この授賞はチャップリンの国外退去を阻止できなかったハリウッドからの謝罪を意味した。舞台に登壇したチャップリンは、スタンディングオベーションで迎えられた。

1977年のクリスマスの朝、スイスの自宅で永眠。88歳であった。

Charlie Chaplin

Charlie Chaplin


俳優、映画監督、コメディアン、脚本家。愛称はチャーリー。世界の三大喜劇王と呼ばれる。
国: 英国
生: 1889年4月16日
没: 1977年12月25日(享年88)

チャップリンの名言

下を向いていたら、虹を見つけることは出来ないよ。

浮浪者、紳士、詩人、夢想家、孤独な人、皆いつでもロマンスと冒険にあこがれてるんだ。

人生は恐れなければ、とても素晴らしいものなんだよ。人生に必要なもの。それは勇気と想像力、そして少しのお金だ。

無駄な一日。それは笑いのない日である。

行動を伴わない想像力は、何の意味も持たない。

私が想像できる最も悲しい事は、ぜいたくに慣れてしまうことだ。

私たちは皆、互いに助け合いたいと思っている。人間とはそういうものだ。相手の不幸ではなく、お互いの幸福によって生きたいのだ。

連中の恨みもやがて過ぎ去り、独裁者らも死んでしまう。そして連中が人々から奪った力は、人々に戻される。そして連中が死んでしまう限り、自由が失われることは決してない。

何のために意味なんか求めるんだ?人生は願望だ、意味じゃない。

忘れないで、いつも身をかがめていたら、何も拾いあげられないんだよ。

人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。

私は庶民の味方だ。そういう人間なんだ。

このひどい世の中、永遠のものなんてないのさ。我々のトラブルさえね。

死と同じように避けられないものがある。それは生きることだ。

私は雨の中を歩くのが好きなんだ。そうすれば、誰にも泣いているところを見られなくて済む。

あなたが本当に笑うためには、あなたの痛みを取って、それで遊べるようにならなければなりません。

私の苦痛が、誰かが笑うきっかけになるかもしれない。しかし、私の笑いが、誰かの苦痛のきっかけになることだけは絶対にあってはならない。

一人を殺せば殺人者だが、百万人を殺せば英雄だ。殺人は数によって神聖化させられる。

完全な愛というものは、もっとも美しい欲求不満だ。なぜならそれは、言葉以上のものだから。

説明しなければ理解できないような美に対して、私はあまり寛容でない。もし創作者以外の誰かによって、その美について補足説明が必要ならば、私はそれが果たして目的を達成したと言えるのだろうかと疑う。

笑いとはすなわち反抗精神である。

私の最高傑作は次回作だ。

もともと人間の運、不運などというものは、空行く雲と同じで、結局は風次第のものに過ぎない。

しばしば、とんでもない悲劇がかえって笑いの精神を刺激してくれる。

いいかい、もし、良いと思ったら、どうやろうかなどと決して心配するな。つまり直感だよ。

最初から多くのことを成し遂げようとして極端な努力をすると、たちまちのうちに全てを放棄することになる。

人に大切なのは、自信を持つことだ。私が孤児院にいたとき、腹をすかせて街をうろついて食いものをあさっていたときでも、自分では世界一の大役者ぐらいのつもりでいた。つまり勝ち気だったのだ。こいつをなくしてしまったら、人はうち負かされてしまう。

すべてのものに欲望がある。欲望があるから、バラはバラらしく咲き、岩は岩でありたいと頑張っている。

幸福を手にするための戦いは美しいものです。

わずかの人間で決めた賞なんて、そうたいした名誉ではない。私のほしいのは大衆の喝采だ。大衆が私の仕事を賞賛してくれたならば、それで十分だ。

必要なのは知識でなく思いやりである。思いやりがなければ残るのは暴力だけである。心に愛を知らぬものだけが憎しみ合うのだ。人生はもっと美しく、もっと素晴らしいはずだ。

失敗は重要ではない。自分自身を馬鹿にするのはなかなか勇気がいる。

権力と威厳を持ちすぎる者は、いつでも最後には人々の嘲笑の的となる。

私たちがみんなで、小さな礼儀作法に気をつけたなら、人生はもっと暮らしやすくなる。

私は悲劇を愛する。悲劇の底にはなにかしら美しいものがあるからこそ、愛するのだ。

アイデアというものは、それを一心に求めてさえいれば必ず生まれてくる。

人間というのは、段々年をとると、停泊地が欲しくなるものである。それは長い間に良く知り合った人であり、一番楽しい人である。

この世界は無情な世界です。人はそれに対処するために無情でなければなりません。

私はもうアメリカに用はない。もしイエスが大統領であっても、私はあそこには戻らない。

私は神とは仲が良い。私が対立しているのは人間だ。

言葉はとるにたらないものだ。一番大きくても「象」としか言えない。

思想だけがあって感情がなければ、人間性は失われてしまう。

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