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王貞治の名言

王貞治

本塁打868本など数々の日本プロ野球記録を保持。世界の王と称される。

1940年5月10日(戸籍上の出生日は5月20日)、東京府東京市本所区(現:東京都墨田区)にて、中華料理ラーメン店を営む中華民国(台湾)籍の父と日本人の母のもとに次男として生まれる。

小学校時代の貞治は横綱・吉葉山から相撲取りになることを勧められるほど相撲が強かった。

中学校時代は身長175cm前後と長身になり、陸上部と卓球部に在籍したこともある。野球部にも在籍していたがグラウンドが使えず休部同然の状態であった。

高校は第一志望だった進学校の都立墨田川高校に落ち、早稲田実業学校高等部商業科に進学。

王貞治は1年生の時に控え投手として夏の甲子園出場。2回戦で先発登板を果たしたが敗戦。

2年生の春の甲子園ではエースとして優勝を果たし、関東に初めて選抜優勝旗をもたらした。夏の甲子園では2回戦で延長11回を完投し、ノーヒットノーランを達成。

3年生の選抜大会では打者としても活躍し、30年ぶりとなる2試合連続本塁打を放つ(当時の高校野球は木製バットを使用)。3年生の夏は決勝戦で逆転サヨナラ負けを喫し、王貞治は5季連続の甲子園出場を果たせなかった。

高校2年生のときに巨人からの誘いがあったが、王貞治は父の意向により大学進学を考えていたため断っている。しかし、3年生の夏の東京都予選で敗戦したことにより野球にけじめをつけて大学進学する気持ちになれず、巨人入団を決めた。

1959年、王貞治は契約金1,800万円、年俸144万円、背番号「1」という高卒新人としては破格の条件で巨人に入団。投手として入団するも監督にピッチャーでは大成しないといわれ、王は一塁手に転向。

王貞治はオープン戦で5本塁打を放つなど順調にシーズンを迎え、4月の開幕戦では高卒新人ながら7番打者で先発出場を果たす。しかし、2三振1四球に終わり、その後も26打席無安打が続いた。

そして、出場11試合目の公式戦初安打が決勝2ランホームランとなり、王貞治の第1号本塁打となった。

同年6月25日の日本プロ野球史上初の天覧試合(昭和天皇が観戦)では、4号同点2ランを放ち、106回あった長嶋茂雄とのONアベック・ホームランの第1号となる。

しかし、大きな期待がかかるなか3年目まで王貞治の成績は伸び悩んでいた。

3年目のシーズン終了後、荒川博(1930~2016)が巨人の打撃コーチに就任。監督の川上哲治(1920~2013)は、王貞治の成績が伸びない理由は、練習をしっかりとしないことから結果も出せず、自信を持てないためであると考えていた。川上は王の意識改革も期待し、荒川に王を託した。

荒川は王がプロの速球に対応しようとボールを前に迎えに行き、グリップポジションが安定しないことが欠点であると判断。その修正のためにさまざまなフォームを試し、そのひとつが一本足打法であった。

4年目の1962年7月、極度の不振に陥っていた王は、一本足打法を敢行。その日、ホームランを含む3安打4打点を記録した。

王貞治は結果が出たことで一本足打法の猛練習に打ち込むようになる。その過酷さなど、壮絶な王の努力は有名である。そして、7月の1ヶ月だけで10本塁打を放ち、一気に本塁打の量産ペースを上げ、この年38本塁打・85打点で初めて本塁打王と打点王を獲得。以後、王貞治は引退まで一本足打法を貫いた。

1963年のシーズンでは初めて打率3割・40本塁打を記録。2年連続で本塁打王を獲得する。長嶋茂雄とのコンビをON砲と呼ぶ呼称も定着し、王貞治は巨人の二枚看板を背負うようになった。

1964年、24歳の王貞治はシーズン55号本塁打を記録。これは2013年にウラディミール・バレンティン(ヤクルトスワローズ)に破られるまでの日本プロ野球記録であった。

1977年9月3日、37歳の王貞治はメジャーリーグ記録を抜く756号本塁打を達成。この試合で王は両親を後楽園球場に招待していた。また、この偉業が称えられ、王貞治は当時の福田赳夫首相から初の国民栄誉賞を授与された。

1980年11月4日、40歳の王貞治は現役引退を表明。「王貞治としてのバッティングができなくなった」という言葉を残した。王の通算本塁打は868号であった。


Sadaharu Oh

王貞治


日本生まれ、中華民国籍のプロ野球選手、監督。
国: 中華民国(現在の東京都墨田区に生まれる)
生: 1940年5月20日

王貞治の名言

もう打てないんじゃないかという恐怖は、常について回るんです。結果を残してきた人ほど不安と戦ってきたはずだし、恐怖心を持っていない人は本物じゃない。その怖さを打ち消したいがために、練習するわけです。

努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない。

いままでの僕の記録はみんな、耐えることで作られてきたんです。

いい時もあるし、悪い時もあります。自分もまた、それで初心に戻れたりしましたね。

基本的にプロというのは、ミスをしてはいけないんですよ。

バッティングというのは太陽のまわりを運動する惑星みたいなものでね。その核心は軸として定まっている。

自分のためにやるからこそ、それがチームのためになるんであって、「チームのために」なんて言うやつは言い訳するからね。オレは監督としても、自分のためにやってる人が結果的にチームのためになると思う。自分のためにやる人がね、一番、自分に厳しいですよ。

最高のものを求める強い気持ちがないと、結果は出ないものなんだよ。

僕の役目はホームランを打つことだ。

ジャイアンツでは、何のための練習なのか、自分の役割は何なのかを明確に意識していました。

カネほしさに野球をやる人は、決して本物にはなれないでしょう。

勝負は、「ゲームセット」と審判が言うまで、分からない。

やっぱり勝つと見えてくるものがあるんだよ。

ときには嵐のような逆風が人を強くする。

我々は勝つしかない。勝てばファンも拍手で迎えてくれる。

勝つための最善の努力は、どんな時もやめてはいけない。逃げたらだめなのです。

ホームランというのは準備したことがちゃんとできてるだけの話。

練習を怠る人が上手くなることはないんですよ。修練して上手くなった人がより上手くなるんです。

名選手になることは難しくない。努力を怠らず、目の前にあるものをキッカケを逃さずに、確実に掴んでいけば、必ずどうにかなる。

直球を一球でしとめろ。それができなくなれば終わりだぞ。

ホームランを打つことは注目されたけど、それ以外は、あくまでも王貞治だと思っていた。世間はなかなかそう思っていなかったけど、僕はそういう生き方をしようと思っていたからね。

敵と戦う時間は短い。自分との戦いこそが明暗を分ける。

練習で120%の力で振れ。そうすれば試合は80%の力でいい。

過去にとらわれず、現在をいかによくするか。

仕事は忍耐第一主義。

僕は人生は円だと思ってきました。朝があれば、昼があり、夜があって、朝がくる。季節で言えば冬がくれば、春、夏、秋がきて。これはもう止めようがありません。人間もサイクルみたいなものがあって、調子がいいときもあれば、悪いときもある。

チームでも人でも、成長するときは45度の角度で一本調子で上がっていくことはない。最初は見えないくらいジワジワと上がっていき、途中から急カーブで伸びるものです。そのジワジワの時期にも、監督としては辛抱強く言い続けること、そして待ち続けることが大事なのです。

ヒットを打てなくても口惜しくなくなったし、ホームランを打ってもそんなに嬉しくなくなった時、限界がきたと思った。

王貞治のバッティングが出来なくなりました。

この国の将来の為に、私がどういうものを残せるかで、今は頭がいっぱい。

– END –