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落合博満の名言

落合博満

1982年に史上最年少(28歳)で初の三冠王に輝き、1985年、1986年は2年連続での三冠王を獲得(史上初の三冠王3度達成)。1994年から巨人に移籍、長嶋茂雄監督率いるチームの2度のリーグ優勝に4番打者として貢献した。

1953年、秋田県南秋田郡若美町(現:男鹿市)にて7人兄弟の末っ子として生まれる。長嶋茂雄に憧れて野球を始め、小学生の頃は雑誌などに載っている長嶋のバッティングフォームをよく真似していた。中学・高校時代は、年間100本もの映画を観賞する映画少年で、特に『マイ・フェア・レディ』は7回見に行き、劇中歌の歌詞(英語)を覚えたほどだった。若美町の後輩(1学年下)には船木千代美がいる(後にTDKの監督として都市対抗野球で東北勢の初の優勝を果たす)。

1969年、秋田県立秋田工業高等学校建築科に進学。体罰をもよしとする体育会系の風習が嫌いで、甲子園常連校ではなく無名の秋田工業を選択した。ところが予想に反して先輩による理不尽なしごきがあり、それに耐えかねて野球部を退部。野球部に在籍していた時期も、野球をしている時間よりも映画館にいる時間の方が長かった。しかし、投打共に落合ほどの実力を持った選手がいなかったため、試合が近づくと部員たちに説得され、復帰した。落合はほとんど練習をせずに、4番打者として試合に出場していた。高校時代は退部と復帰を通算7回繰り返している。野球の名門校ではないため野球選手のOBが少ないが、高校の後輩の川邉忠義とはそれぞれFA制度による移籍の影響で、巨人・日本ハムでチームメートになっている。

1972年、東洋大学に進学。しかし、ここでも先輩がタバコを手にしたら後輩がそれに素早く火をつける、などといった体育会系の慣習に納得できず、故障もしたことで、わずか半年で野球部を退部して大学も中退。秋田に帰った。その後、ボウリング場でのアルバイトをきっかけにボウリングに目覚め、プロボウラーを志すようになるが、これも挫折した。

1974年、母校を訪ねた際に才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めもあって東京芝浦電気の府中工場に臨時工として入社。同工場の社会人野球チーム・東芝府中に加わった。ここでの在籍5年間の公式戦で約70本塁打を放つなど頭角を現す。1976年には中心打者として、東芝府中を創部23年目で初の都市対抗出場に導く。1回戦でデュプロを降し初勝利をあげるが、愛媛相互銀行に完封を喫し敗退。翌年以降も、都市対抗に日本通運、電電東京の補強選手として3年連続出場。1978年には、木田勇、森繁和らとともに第25回アマチュア野球世界選手権日本代表に選出された。この頃の落合は、日中トランジスタラジオの基板を組み立て、夕方から野球の練習をする、という生活を送っていた。

1978年のドラフト会議でパシフィック・リーグのロッテに3位指名されて入団。同年の誕生日で既に25歳という、当時としては非常に遅いプロ入りとなった(通算2000本安打達成者の中で最も遅いプロ入り)。落合をスカウトした城之内邦雄によると、指名理由は「変化球に強く、投手が苦手とするタイプの打者」という一点のみだった(城之内は投手としての視点から、落合の資質を見抜いていた)。なお、巨人は落合をドラフト2位で指名する予定であったが、江川事件によりドラフト会議自体をボイコットしたため、指名は実現しなかった。


Hiromitsu Ochiai

落合博満

元プロ野球選手、プロ野球監督。
国: 日本(秋田県南秋田郡若美町/現在の男鹿市)
生: 1953年12月9日

落合博満の名言

信じて投げて打たれるのはいい。信じて投げて打たれたのなら、それは結果。一番いけないのは、やる前から打たれたらどうしようと考えること。

「まあ、しょうがない」と思うだけでは、しょうがないだけの選手で終わってしまう。

いいんじゃない、うんと苦しめば。そんな簡単な世界じゃないよ。

素振りを1本でも多くやったヤツが、勝つ世界。

上司という立場にいるのなら、任せる部分はきちんと部下に任せておいて、あとはうまくそれらを機能させるというやり方を取るべきだ。

基本に忠実に、普通のことを普通にさせた。見る方はつまらないかもしれないが、それが上達の一番の近道。

悪いとわかっていても、人間がどうしても捨てられないものに先入観がある。

俺、負けたからっていちいちしょげていないからな。

本当にその選手を育てたいと思ったら、「負けるなら負けてもいい。この試合はおまえに任せた」と言ってやるのが大切。

自分のベンチで監督と戦ってもしょうがない。選手達には「戦う相手を間違えるなよ」と言っている。

志の低い人間は、それよりさらに低い実績しか挙げられない。

打率だけ狙うなら4割を打つのは簡単だ。でも3つ全部取らなきゃ意味がないから。

自分は頭を下げないと生活できないと思っているから、媚も売るし、喧嘩もできないんだ。人間、自分に自信があれば喧嘩もするのよ。

良い時も、悪い時も同じ態度で接してくれた人だけ信じられんだ、そういう人と一生つきあっていきたい。

最も厄介なのは、言葉は悪いが、感覚や時の勢いだけで物事に取り組む人だ。そんな勢いは決して長続きしないことを覚えていてほしい。

欠点を直すこと、それはよい部分が失われることでもある。

最終的にこうなってくれればいいという形を示し、その人にあったやりやすい方法を探す。方法論は何も一つだけではない。

うまくなるヒントは、なんぼでもその辺に落ちている。

監督の私がすべてのことに首を突っ込むわけにはいかない部分もある。だからこそ、私が信頼して任せられるだけの人材を妥協せずに集めたい。

壁にぶち当たった時に、自分のやってきたことを否定してしまうとすべてがスタートに戻ってしまう。

精神的なスランプからは、なかなか抜け出すことができない。根本的な原因は、食事や睡眠のような基本的なことにあるのに、それ以外のところから原因を探してしまうんだ。

働き場を与えれば、人は動く。

何でもできる人はいない。

40本塁打してくれる大砲が貴重な戦力なら、送りバントを100パーセント決めてくれる選手も大切な戦力だ。

「獲りたい」などと言っていてはだめ。「獲る」と決めれば取れる。

自分の好き嫌いで選手を使ってはダメ。自分で自分のクビを絞めることになる。勝負は勝たなくてはいけない。勝たなきゃみんな納得しないでしょ。

理由をきちんと説明して納得させることができれば、どんな選手にも正しくやらせることができる。

どんにいいヒントを貰っても、それを実行しなければ成果は上がってこない。

人間がやること。何でスーパーマンみたいなことを期待するかなあ。

一番ブーイングを受ける場所、一番嫌な役割っていうのは、監督がしなきゃいけない。

はじめにマイナス思考で最悪の結果を想定し、そうならないような計画を立ててから組織や集団を動かす。そして、全体の流れが軌道に乗ってきたと見るや、プラス思考に転じて攻めて行く。

どうやってこのチームを、強くするしか考えていない。預かった以上は、俺のやり方でやる。周囲の声は、俺には関係ない。

マスコミ向けの練習をするつもりは、さらさらない。

役割がはっきりしていれば、あとは全員で目標を目指して前進するだけだ。難しいことは何もないだろう。

当てられたのに何でやり返さない、と言われることもある。やり返すことは簡単なことだが、野球は勝ち負けを競うスポーツ。当たり所が悪ければ死の恐怖がつきまとう。うちの選手を痛みを与える側にはさせたくない。狙ってぶつけにいく野球をやっている人がいるなんて信じたくない。

現実的には無理だとわかっていようが、「うちは優勝を狙います。それだけの戦力はある」と外に対して言えるのが、真の指導者なのだ。

私は「落合・中日」ではなく「中日の落合監督」だと思っています。あくまで主役は選手達です。

代打で始まった俺の野球人生。最後も代打で終わりたい。

– END –