毛沢東の名言
批判は事が行われているときにすべきである。いつでも事が済んでから批判する癖をつけてはいけない。
私の戦略は、一をもって十に対抗することである。私の戦術は、一の敵に対して十をもって撃破することである。
日中戦争時代の毛沢東の言葉
「戦争という巨大な力の最深の根元は、人民の中に存在する。
日帝がわれわれを迫害し得る大きな原因は、中国人民の側が無秩序・無統制であったからだ。
この弱点を解消したならば、日帝侵略者は、われら数億の目覚めた人民群の目前にて、一匹の野牛が火陣の中に放られた如く、われらの恫喝により彼らは飛び上がらん如く脅かされるであろう。
この野牛は必ず焼き殺さねばならぬ」「日本はいま世界有数の強い帝国主義国である、一方で我が国は依然として弱国であり、軍事力、経済力、政治組織力などの面で敵におとっている。
だが日本は国土が比較的小さく、人力、軍事力、財力、物力にいずれも欠乏を感じており、長期の戦争にはたえられない。
一方で中国はさしのぼる朝日のような国で、日本帝国主義の没落状態とはまったく対照的である。
中国の戦争は進歩的であり、この進歩性から、中国の戦争の正義性がうまれている。
この戦争は正義の戦争であるために、全国的な団結をよびおこし、敵国人民の共鳴をうながし、世界の多数の国ぐにの援助を勝ちとることができる。
中国はまた大きな国で、土地が広く、物産は豊かで、人口が多く、兵力も多いので、長期の戦争をささえることができ、この点もまた日本と対照的である。」
天皇制に対する毛沢東の言葉
戦争末期の1945年5月28日、日本共産党の代表だった野坂参三の演説原稿を読み、以下のような書簡を送っている。
野坂は「人民大多数が天皇の存続を熱烈に要求するならば、これに対してわれわれは譲歩しなければならぬ。
天皇制の問題は、戦後儘速(迅速)に人民投票によって決定される」という投票による天皇制容認の草稿を用意していたが、毛沢東はそれに対して「『儘速』の二文字は削除できると思われます」「私は、日本人民が天皇を不要にすることは、おそらく短期のうちにできるものではないと推測しています」とさらに慎重な態度を取っている。
なお、毛沢東が戦後日本の天皇制を批判したことは無い。
戦犯問題についても野坂が広範なファシスト分子摘発を訴えたことに毛沢東は反対し、特高警察や思想警察でさえ「一部の積極分子のみ」に限定するのが良い、と寛容な態度を取った。
日本社会党訪中団との会見における毛沢東の発言
1964年7月、日本社会党の佐々木更三率いる訪中団が毛沢東と会見した際に、過去の日本との戦争について謝罪すると、毛沢東は「何も謝ることはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた。
これのおかげで中国人民は権力を奪取できた。
日本軍なしでは不可能だった」と返した。
元大日本帝国陸軍中将の遠藤三郎と毛沢東の会見、元A級戦犯の久原房之助と毛沢東の会見でも毛沢東から似た発言がなされた。
この発言をした1964年は大躍進政策の失敗後であり、文化大革命の前夜であった。
毛沢東は、日本人を「日本軍国主義者」と「日本人民」に分けて考え、後者と統一戦線を組み、第三の革命とされた日本人民革命を起こさせようと考えていたという。
沖縄返還を要求する日本人民の愛国闘争を支持するとも人民日報で述べていた。
「道は自分で切り開くもの」
毛沢東は、「道は自分で切り開くもの」と、過去の歴史の指導者と同じことをしようとは考えてはいなかった。
ある時、護衛の者と山登りした際も昇ってきた道を引き返して下りようとはせず、別の道を見つけて下ったという逸話がある。
『実践論』の言葉
「ある事物を理解するためには、それを変革する戦いに参加しなくてはならない」
国務院副総理陳永貴に対する毛沢東の発言
1970年代に国務院副総理陳永貴が日中戦争のとき「漢奸」だったと告白した際、毛沢東はそれを一笑に付して、「日本人はわが救命恩人だ。
命の恩人の手伝いをし、漢奸になったということは、つまりわたしに忠誠を尽くしたということだ」と言った。
毛沢東選集の言葉
「革命とは、客を招いてごちそうすることでも無ければ、文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりすることでもない。
そんなお上品でおっとりとした雅やかなものではない。
革命とは暴力である。
一つの階級が他の階級をうち倒す、激烈な行動なのである。」