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ジョージ・ワシントンの名言

ジョージ・ワシントン

アメリカの軍人、政治家。アメリカ合衆国初代大統領。

1732年2月22日、アメリカ東部のバージニア植民地ウェストモアランド郡コロニアル・ビーチに生まれる。

両親はイギリス出の家柄で黒人奴隷プランテーションを経営していた。

ワシントンが11歳の時に父が死去。14歳年長の長兄ローレンスが父親代わりを務める。ローレンスが父の遺産の大半を相続し、ワシントンも農園の一部を相続した。

ワシントンは青年期に測量を学ぶ。16歳で農園主としての経歴を積み始め、翌年には測量士として初めて公的な役職に就いた。

ワシントンが20歳のときに長兄ローレンスが死去。ローレンスはバージニアの民兵隊長を務めており、ワシントンはその地区の一つを継承し、少佐となる。

1754年、22歳のワシントンはバージニア市民軍の大佐に任命される。ワシントンはオハイオ渓谷からフランス軍を排除するために派遣されたが、フランス軍に数で圧倒され、降伏。フランス軍から解放されたワシントンは降格されるよりも辞任の道を選んだ。

1755年、ワシントンはフレンチ・インディアン戦争でオハイオ領土を取り戻すことを試みたイギリス軍のブラドック遠征に従軍。この戦いで敗北を喫したものの、彼は退却の際に砲火の下の冷静さを示した。

1758年、26歳のワシントンはジョン・フォーブスの遠征隊に参加。デュケイン砦のフランス軍を排除することに成功。この年にワシントンは軍隊から退き、その後の16年間はバージニアの農園主および政治家として過ごす。

1759年、27歳のワシントンは未亡人であったマーサ・ダンドリッジ・カスティスと結婚。マーサの連れ子の二人を愛情をこめて育てたが、ワシントン夫妻には子供ができなかった。

ワシントンは裕福な未亡人と結婚してその資産を増し、社会的地位を上げる。1758年からはバージニア植民地議会にも選ばれる。

ワシントンは1769年に高まった植民地の反抗で指導的な役割を担う。1774年の耐え難き諸法の成立を「我々の権利と主権に対する侵害」と見なし、大陸会議の招集を求めるフェアファックス決議を採択した。

1775年4月のレキシントン・コンコードの戦い(アメリカ独立戦争が始まる契機となった英米間の戦闘。植民地軍がイギリス軍を撃破)後、大陸会議は6月に大陸軍を創設し、ワシントンは植民地軍総司令官に任命される。

ジョージ・ワシントンは司令官としてアメリカ独立戦争(1775~1783)を戦い、勝利。1783年のパリ条約によって、大英帝国はアメリカの独立を承認した。

1789年2月、アメリカ合衆国において最初の大統領選挙が行われ、57歳のジョージ・ワシントンが初代大統領に選ばれる。選挙人投票率100%の票を得た大統領はワシントンだけである。

ワシントンは3期目の大統領選出馬を拒否し、大統領職は2期までという慣習的政策を作った。この政策は、のちにアメリカ合衆国憲法修正第22条によって法制化された。

ワシントンはインディアン民族に対しては絶滅政策を採った。ニューイングランド領のインディアン部族に対しては皆殺しを命じている。

1797年3月、65歳のワシントンは大統領職を辞任。ワシントンはバージニア州のマウントバーノンに帰り、多くの時間を農園で過ごした。

1799年12月14日、ジョージ・ワシントンは自宅にて死去。67年の生涯を閉じた。

George Washington

ジョージ・ワシントン

国: 米国(バージニア州ウェストモアランド郡)
1732年2月22日 ~ 1799年12月14日(享年67)

ジョージ・ワシントンの名言

自分の評判を重視するなら、質のよい人々とつきあうべきだ。悪い仲間といるより、独りでいた方がましである。

出来ないことを引き受けるな。約束を守ることには、細心であれ。

自由はひとたび根付きはじめると急速に成長する植物である。

他人を押さえつけている限り、自分もそこから動くことはできない。

おのれの職分を守り黙々として勤めることは、中傷に対する最上の答えである。

その場にいない人を、批判してはいけない。

真の友情はゆっくり成長する植物である。友情と呼ぶにふさわしいところまで成長するには、度重なる危機にも耐え抜かねばならない。

過去の過ちから役に立つ教訓を引き出すためと、高価な代償を払って得た利益を得るためでない限り、決して過去を顧みるな。

我々には政党はいらない。なぜなら、我々はすべて共和主義者だからだ。

上司と口論してはいけない。あなたの判断を穏やかに聞いてもらうように心がけよう。

人の話の腰を折ってはいけない。人の話題を横取りしてもいけない。

下手な言い訳をするよりも言い訳しない方がましだ。

私の母は、今までに見た女性の中で一番美しい人でした。私が今あるのは、すべて母のおかげです。生涯の成功のすべては母から与えられた道徳教育、知的教育、身体教育のおかげなのです。

常に継続してやっていれば、素晴らしいことが出来るようになる。

戦争に備えることは、平和を守る最も有効な手段のひとつである。

政治とは理性ではない。雄弁でもない。政治とは力である。炎のような、つまり、危険な使用人であり、恐ろしい主人である。

賭博は貪欲の子供であり、不正の兄弟であり、不幸の父である。

人々の権利を確保するため、人々の間に政府が組織される。

正直は、常に最上の政策である。

– END –