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鄧 小平の名言

鄧 小平
中華人民共和国の政治家。中華人民共和国を建国した毛沢東の死後、事実上の中華人民共和国の最高指導者となる。毛沢東が発動した文化大革命によって疲弊した中華人民共和国の再建に取り組み、「改革開放」政策を推進して社会主義経済の下に市場経済の導入を図るなど、同国の現代化建設の礎を築いた。

1904年、四川省広安県の裕福な客家系地主の家庭に生まれる。初め鄧先聖と名づけられ、幼時には鄧希賢(私塾での学名)も用いる。1904年、四川省広安県の裕福な客家系地主の家庭に生まれました。

1920年、16歳のときにフランスに留学します。第一次世界大戦後の労働力不足に応じた「勤工倹学」という苦学生でした。パリから遠く離れた市立中等校に入学して節約に励むも、半年で生活費を稼ぐため学校を辞めてしまいます。鉄鋼工場、レストランのボーイ、清掃など、職を転々と変えながらも、堅実に貯金して、1922年10月に再び田舎町の市立中等学校に入学して3ヶ月間学び、パリ近郊のルノーの自動車工場(ロスチャイルド系の企業)で仕上げ工員として勤務します。

1922年、フランス留学中に中国少年共産党に入党し、機関誌の作成を担当します。「ガリ版博士」とあだ名されたそうです。

1925年、中国共産党ヨーロッパ支部の指導者にまでなります。

1926年、フランス政府に危険分子と見なされ、モスクワに渡ります。鄧小平がパリを出発した数時間後、フランスの警察が鄧小平のアパートを捜査に入り、10日後に国外追放令を出されていたそうです。東方勤労者共産大学・モスクワ中山大学で共産主義を学びました。ロスチャイルドが彼をモスクワに渡らせたという説があります。鄧小平は、若き日、ロスチャイルドの企業ルノーで「教育」を受けました。鄧小平は「共産主義者」と見なされ、フランス警察に逮捕されかかります。しかし、警察が鄧小平のアパートを急襲する直前に、父・鄧文明の所属する中国マフィア洪門会の在フランス支部の支援と、共産主義者レーニン、トロツキーに莫大な資金援助を行っていたロスチャイルドの密通情報により、鄧小平はソ連に逃亡しました。

1927年に帰国し、ゲリラ活動を開始。

1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となりました。しかし党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う鄧小平を失脚させました。

1935年、周恩来の助力で中央秘書長に復帰。

1952年、毛沢東により政務院副総理に任命され、翌1953年には財政部長(大臣)を兼任。

1954年9月に政務院が国務院に改組されると、引き続き副総理を務める。

1955年4月、第7期党中央委員会第5回全体会議(第7期5中全会)において中央政治局委員に選出。さらに1956年の第8期1中全会で党中央政治局常務委員に選出されて党内序列第6位となり、中央書記処総書記として党の日常業務を統括することとなる。

1957年には総書記として反右派闘争の指揮を取る。約55万人が迫害を受け、毛沢東の死後にその99%以上が冤罪であったと認められた事件であった。

トウ小平 - Wikipedia



『ジャパン・アズ・ナンバーワン』著者、最新作 天安門事件のタブーを破り、中国で60万部突破!
鄧小平は言った。 中国は決して覇権を唱えない。 他国を抑圧せず、搾取しない。
21世紀アメリカの最後のライバルとなった超大国・中国。本書下巻では経済発展の原動力となった広東と福建の門戸開放という実験からストーリーが始まる。
三度の失脚から復活し、改革開放へと突き進む――鄧小平と数多くの登場人物のストーリーを織り交ぜながら、あたかも大河小説のように、中国の現代化への道のりを描く。政府要人、党史研究者、国内外の専門家、家族、関係者への聞き取りのほか、日米中の公文書など膨大な文献を駆使し、10年もの歳月をかけて完成した超大作。

Deng Xiao Ping

鄧 小平


鄧 小平
(とう しょうへい)
生:1904年8月22日
没:1997年2月19日

鄧 小平の名言

食糧問題解決のためには増産さえできればよい。黒い猫でも白い猫でもネズミを取るのがよい猫だ。
【覚書】「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」が有名であるが、これは四川省の古くからの諺である。実際に彼が言ったのは「白い猫」ではなく「黄色い猫」である。これは最も鄧が好んだ言葉であり、毛沢東が鄧を弾劾する際にその理由の一つとしている。

改革・開放には大きな肝っ玉が必要だ。正しいと思ったら大胆に試してみよ。

【鄧小平の金融改革】
1976年10月、「文化大革命」による十年の動乱が終息し、銀行システムの再建が始まります。1978年12月に開かれた十一届三中全会において、「文化大革命」およびそれ以前の「左」傾の全面的是正が開始され、改革開放の新しい時代が始まります。銀行業も鄧小平理論の下、改革開放の路線に向います。1977年から今日までの商業銀行の発展はおおよそ以下のような階梯を辿るのです。

1978年3月には中国人民銀行総行は独立した部級単位としての地位を取りもどしたが、まだその商業銀行と中央銀行を兼ねるという職能の二重性はそのままでした。

1979年初めからは、改革開放の方針の下に、相継いで,専業銀行の恢復が行われました。

農村金融業務は中国農業銀行の主管、外貿信貸と外国為替業務は中国人民銀行から中国銀行へ移管、長期投資と貸款業務は財政部から中国人民建設銀行へ移管しました。 1981年末には国際金融機構の貸款やその他資金を受け国内企業に転貸するための中国投資銀行を設立しました。 1983年9月17日,国務院は中国人民銀行を中央銀行と明文規定し、信貸や貯金等の商業銀行業務は、新たに設立した中国工商銀行へ移管しました。ここに中央銀行を頭とし、四大国家専業銀行をバックボーンとする銀行システムが成立しました。

1984年10月、中共十二届三中全会は「中共中央経済体制改革に関る決定」を出した。「計画的商品経済」を発展させるため、銀行システムの速やかな拡張を行います。

1985年、人民銀行は専業銀行の業務は互いに交錯可能であり、「銀行は企業を選好し、企業は銀行を選好する」という政策措施を出し、四つの専業銀行間での競争を奨励し、かくして銀行資金の「統收統支」的な「供給制」は打破され、四つの専業銀行はさらに農村にまでその触角を伸ばし,当時勃興しつつあった郷鎮企業に対する資金提供を行いました。

改革開放の進展は、銀行業の改革と発展の動力となりました。1986年12月、鄧小平は「金融改革の速度を速め,銀行を銀行らしくする」ことを要求しました。1987年中国人民銀行は中央銀行の指導の下に、各類の銀行を主体とした、各種の金融機構が並存分業する社会主義的金融システムの構築を主張。1987年の中共「十三」大と1992年の中共「十四」大の精神に基づき,銀行業は改革の中で不断に拡大発展を遂げました。

【鄧小平の政策】
1978年、「社会主義近代化建設への移行」すなわち改革開放路線が決定され、歴史的な政策転換が図られます。第一次天安門事件の再評価が行われ、周恩来の追悼デモは四人組に反対する「偉大な革命的大衆運動」とされました。鄧小平はこの会議で中心的なリーダーシップを発揮し、事実上中国共産党の実権を掌握したとされています。

1978年に日中平和友好条約を結びました。翌年は米中国交回復を行ないます。 

1980年、鄧小平は当初民主化を擁護していましたが、ポーランドで独立自主管理労働組合「連帯」が結成されると、自己の政策に反する活動家を投獄するなど一転して反動化しました。政治面では共産主義による中国共産党の指導と一党独裁を強調し、経済面では生産力主義に基づく経済政策を取りました。計画経済から商品経済へ、行政命令による経済の運営から経済の論理による経済の運営への転換を行いました。これらすべては、かつて極度に権限の集中した「中央集権的計画経済体制」を「商品経済、市場経済」に改めようとするものでした。

82年の党中央大会で「中国的特色を持つ社会主義」を提唱。84年に香港返還問題について合意文書に調印。

1989年6月には第二次天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切りました。この事件については初め趙紫陽総書記などが学生運動に理解を示したのに対して、軍部を掌握していた鄧小平が陳雲、李先念ら長老や李鵬らの強硬路線を支持し、最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断したといわれています。

松下幸之助と鄧小平の「君子の約束」

最も早く中国に進出した外資系企業として、松下電気産業は中国の改革開放の歴史をその目で見てきた。30年前の二人の年配者の「君子の約束」は、いまでもそう語られている。

鄧小平「教えを請う姿勢で参りました」

松下「何であれ、全力で支援するつもりです」

1978年10月、当時、国務院副総理の鄧小平は日本を訪問した。この訪問の重要な目的は、日本企業の近代的な生産の様子を視察することだった。

鄧小平にとって、近代化とはまず電子工業化である。だが、当時の中国は、自動車生産の電子化は言うまでもなく、家電生産もまだ手作業の段階にあった。テレビや冷蔵庫、洗濯機は三種の神器と呼ばれ、庶民は購入するのに順番を待たなければならなかった。

鄧小平のこの訪問に、日本の一人の伝奇的な人物がずっと強い関心を寄せていた。日本産業界で「経営の神様」と呼ばれる松下幸之助である。

松下幸之助に、鄧小平も強い興味を抱いていた。視察に訪れた3番目の工場は、松下電器産業の大阪・茨木にあるテレビ工場だった。

1978年10月28日、83歳の高齢で、すでに「第二線に退いていた」松下幸之助は小雨の中、工場の正門で鄧小平を出迎えた。

松下電器産業の当時の映像資料を見ると、鄧小平は階段を上る際、後方にいる松下幸之助に手を差し出した。そのあともかなりの間、二人の手は握られたままだった。そして、鄧小平が別の手を握ると、松下幸之助は鄧小平にお辞儀をして謝意を表した。

その後、鄧小平はカラーテレビや高速ファクシミリ、漢字プログラムシステム、ビデオカメラなどの製品を視察。ゆっくりと回ったのは、製品の生産過程を詳細に見るためだった。

従業員が当時のハイテク製品・レンジを紹介。わずか数秒で1個のシュウマイが湯気をたてながら出されたのを見て、鄧小平はすぐに手にとり口に放りこんだ。

鄧小平のこの動作に、松下幸之助は思った。この中国の指導者は実に人間らしい、表面をつくろうことをせず、試食までしてくれた――。

松下電器産業との会談で、鄧小平は当時の中国の立ち遅れた現実を忌憚なく語った。「私たちはほんとうに教えを請う姿勢をもってあなた方とお会いすることにしたのです」

さらに鄧小平は「中国はこれまで対外債務はなく、国内債務もなく、非常に誇りに感じています。今後、私たちは近代化しなければならず、自力更生のもとに、外国の技術や資金を導入することにしています。電子工業がなければ、近代化は実現できないので、あなた方の電子工業を私たちの方に持っていきたいと思っています」と語った。

その率直さに、松下幸之助はいっそうの親しみを感じた。だからか、鄧小平が「松下老翁、中国の近代化建設にお手伝いいただけますか」と問うと、松下幸之助は即座に「何であれ、全力で支援するつもりです」と答えた。

これを聞いた鄧小平は満面笑みを浮かべ、結構なことだと何度もうなずきながら、松下幸之助に中国訪問を招請し、松下幸之助は喜んで受け入れた。

喜びここに至り、鄧小平は日本の友人の要望にこたえ、茨木工場の記念冊子に題字を寄せた。「中日友好前程似錦(中日友好の前途は洋々たり)」

鄧小平「中国の近代化建設では孫悟空が不足しているのです」

支援の約束を早急に実現するため、1979年6月、松下幸之助は中国を訪問した。

写真:鄧小平は1979年6月29日、松下電器産業の最高顧問である松下幸之助一行と会見した。


新中国建国後、初めて中国を訪れた世界クラスの企業家だったことから、松下幸之助は国賓級の待遇を受けた。民間の企業家がこうした破格の待遇を受けるのは、過去例のなかったことである。

松下幸之助は北京に着いたその日、京劇「孫悟空大閙天宮(孫悟空、天宮を大いに騒がす)」の鑑賞に招待された。

数日後、鄧小平との会談で「一昨日、『孫悟空大閙天宮』を鑑賞しました。孫悟空の神通は広大でした。経営管理者も孫悟空のように神通を広げていくことこそが大切です」と語った。

鄧小平は答えた。「中国の近代化建設では孫悟空が不足しているのです」

松下電器産業はその後、「孫悟空」を打ち出そうと中国の支援に乗り出す。松下幸之助の訪中期間中、中国政府と「技術協力第一号」協定が結ばれ、上海電球工場にモノクロブラウン管プラントが提供されることになった。同工場は工場建設を前に、日本の松下電器産業に社員を研修と視察のため派遣した。その多くが近代化建設の「孫悟空」となり、全国人民代表大会常務委員会の呉邦国もそのうちの一人である。呉邦国は第2次松下視察団の責任者を務めた。

2003年、呉邦国は松下電器産業を訪問した際、研修した当時の写真を目にして、「かつて住んでいたところをまた来ることができ、感無量です」と語った。

鄧小平は松下幸之助と会見した際、さらに改革開放や外国との技術協力などの問題について意見を求めた。

当時、接待担当を務め、現在は中日友好協力協会副会長の座にある陳永昌は、「松下幸之助は自らの考えを非常に真剣に述べた。大企業のトップとして、中国の改革開放では内外の中小企業との交流をおろそかにしてはならないと提言した」と振り返る。

鄧小平は松下幸之助の真摯な姿勢に心打たれ、「大企業として、あなたのような意見は、まったく初めのことです」

松下幸之助は「中国の電子工業の近代化を必ず支援していく決心です」と述べるとともに、日本電気などと共同で、電子工業化の急速な発展を支援していく構想を提起した。

松下幸之助が帰国する前に、鄧小平は再度会見し、この問題について協議した。

(文中敬称略)

松下幸之助と鄧小平の「君子の約束」(1)

「チャイナネット」2008年11月4日

1978年日本の旅――鄧小平氏が訪日で学んだもの

1978年は、中国の国家戦略に大きな転換が起こった年だ。中日両国は同年8月、「中日平和友好条約」を締結。続く10月22~29日、鄧小平氏が、中国の指導者としては戦後初となる正式訪日を行った。この訪問は、「中日平和友好条約」の批准書交換セレモニーに出席するためのものだったが、鄧小平氏にとっては中国近代化の大戦略を準備するための学習の旅でもあった。中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議の直前に実施されたこの旅の中で、中国の改革開放の総設計者である鄧小平氏は、改革開放の壮大な青写真を心に描き、中国をいかに発展させていくかを考えていた。

 訪日した鄧小平氏は、東京の記者クラブで記者会見を行い、高い注目を浴びた。記者会見には、共同通信・時事通信・ロイター通信・UPI通信・AP通信・AFP通信・DPA通信など有名通信社から400人余りの記者が駆けつけた。中華人民共和国の指導者が「西欧式」の記者会見を行ったのはこれが初めてだった。

 中国の近代化に関する質問を受けた鄧小平氏は、実務的で開放的で率直な自らのスタイルを西側記者らに示し、「我々は、今世紀末までの近代化実現を掲げている。そこでいう近代化とは、その頃(20世紀末)の世界の水準に迫った近代化を指す。世界は飛躍的に発展しており、その頃の水準、例えば日本のその頃の水準は、現在の水準を超えたものとなっていることだろう。我々にとっては、日本や欧州や米国の現在の水準に達するだけでも容易ではない。22年後の水準に達するのはさらに困難だ。我々はその困難をはっきりと認識した上で、このような遠大な志を立てた」と答えた。

 鄧小平氏は、近代化を実現するための心得として、「正しい政策を作るには、学ぶことがうまくなければならない。そうすれば、海外の進んだ技術と管理方法を我々の発展の起点とすることができる。まず必要なのは、我々が遅れていることを認めることだ。遅れていることを素直に認めれば、希望が生まれる。次に、学ぶことがうまくなければならない。今回日本を訪れたのも、日本に教えを請うためだ。我々は全ての先進国に教えを請う。第三世界の貧しい友人たちが培ってきた価値ある経験にも教えを請う。このような態度・政策・方針に基づいてこそ、希望を持つことができる」と語った。

 鄧小平氏は、遅れていることを認めることの必要性について、「容貌が醜いのに美人のようにおしゃれしてはいけない」とユーモアに富んだ表現でこれを説明し、会場に笑いを巻き起こした。記者たちは、このような率直な態度こそ中国再興の希望のありかだと納得した。

 鄧小平氏は訪日中、日本社会党・公明党・民社党・新自由クラブ・社会民主連盟・共産党の野党6党の代表と会い、15分間の懇談の席を持った。鄧氏は懇談中、秦の始皇帝の命を受けた徐福が不老長寿の薬を探すために日本に渡ったという故事を思い出したためか、ふと話題をかえ、「日本には不老長寿の薬があると聞いている。今回の訪日の目的は、第一に、批准書を交換すること。第二に、日本の古き友人たちの努力に感謝を示すこと。第三に、不老長寿の薬を探すことだ」と語り、会議室を笑いで満たした。鄧氏はさらに、「つまり、日本の豊かな経験を求めるために来たのだ」と楽しげに付け加えた。鄧氏の話は各党代表のユーモアを誘い、薬に関する話題で会議室はひとしきり盛り上がったという。

 8日間の訪日期間中、鄧小平氏は時間を作り、新日鉄・日産・松下の3社を見学した。新幹線で東京から関西方面に向かう途中、感想を聞かれた鄧氏は、「速い。とても速い。後ろからムチで打っているような速さだ。これこそ我々が求めている速さだ」「我々は駆け出す必要に迫られている」「今回の訪日で近代化とは何かがわかった」と語った。

 新日鉄の君津製鉄所を見学した鄧小平氏は、工場の設備や技術について詳しくたずね、日本の進んだ生産と管理の経験をそこで研修する中国人労働者に紹介してほしいとの希望を口にした。同じように進んだ工場を中国にも建てたいという鄧氏の決意を示すものとなった。この決意こそ、その後の上海宝鋼での中日協力実現を促した。

 松下電器への訪問時、電子レンジなどの新製品の展示室を鄧小平氏が見学した際にも印象的な一幕があった。松下の案内員が電子レンジの機能を説明するため、一皿のシューマイを加熱して鄧氏に見せた。鄧氏は突然、シューマイをつまんで口に放り込み、「なかなかおいしい」と感想を述べたのだ。松下の従業員らもこれには驚き、何でも試してみるという鄧氏の精神を称賛した。

 鄧小平氏の訪日後、中国には「日本ブーム」が沸き起こった。多くの視察団が日本に赴き、多くの日本人の専門家や研究者が中国に招かれた。中日政府のメンバーによる会議も相次いで行われた。官民の各分野・各レベルの交流は日増しに活発となり、経済・貿易・技術での両国の協力は急速に発展した。(「半月談」より。作者:王泰平)(編集MA)

 「人民網日本語版」2008年12月3日

鄧小平理論(とうしょうへいりろん、英: Deng Xiaoping Theory)とは、中国の鄧小平が唱えた理論。社会主義市場経済、中国共産党の正当化などの主張が中心となっている。

四つの基本原則を堅持しているものの、市場経済に重点を置いたこの理論は今までの中華人民共和国の社会主義中心論とは趣が異なる物になっている。そのため当時の中国国内、特に保守層からのこの論に対する反発が多かった。

鄧小平理論を最もわかりやすく言えば、「先に豊かになれる人が豊かになり、豊かになった人は他の人も豊かになれるように助ける」というものである。これは毛沢東、華国鋒が提唱した「横並び路線」とは全く異なる。

江沢民が唱える「生産力」「文化」「人民の利益」を重視する「三個代表主義」や社会主義初級段階論などと共に、現在の中国の重要路線となっている。

鄧小平の政策
1978年に日中平和友好条約を結び、同年10月に日本を訪れた鄧小平は、後述の新幹線への乗車で日本の経済と技術力に圧倒された。
 中国に帰国した鄧小平は、第11期3中全会において、階級闘争路線を放棄し、「経済がほかの一切を圧倒する」という政策を打ち出す。代表的な経済政策として、「改革・開放」政策の一環である経済特区の設置がある。
 外資の導入を一部地域に限り許可促進することにより経済成長を目指すこの政策は大きな成果を収めた。
しかし、政治面では共産主義による中国共産党の一党独裁を強調、経済面では生産力主義に基づく経済政策を取った。生産力の増大を第一に考える彼の政策は「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」に表れている。
 新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」「なんという速さだ。まるで風に乗っているようだ」という感想を漏らして、「日本と中国が組めば何でもできる」という、際どい発言を冗談まじりに残してもいる。

 訪日時の昭和天皇との会見で「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」という謝罪の言を聞いたとき、鄧小平は電気ショックを受けたように立ちつくした。
 大使館に帰ると「今日はすごい経験をした」と興奮気味に話したという。
 江沢民のような強硬な謝罪を要求せず、歴史認識でも「日中二千年の歴史に比べれば両国間の不幸な時期など瞼の一瞬き(ひとまばたき)にすぎない」と日本の首脳に述べたという。ただし後に、古い政治家である奥野誠亮大臣の発言や閣僚の靖国神社参拝について後に「日中友好を好ましいと思わない人がいる」と批判している。

  昭和天皇の一言に感動した鄧小平
 
実はここにもっと重要な「迷惑」の例がある。一九七八年に鄧小平を迎えた天皇のことばも「メイワク」であった。話が少し入り組んでいるので、丁寧に説明したい。 一九七八年一〇月二三日、日中平和友好条約の批准書交換式のために来日した鄧小平は皇居を訪問して昭和天皇・皇后と会見し、天皇主催の午餐会に臨んだ。天皇が鄧小平を接見した経緯を『人民日報』はこう報じた。
<会見中に天皇陛下は、つぎのようにいった。「日中両国には長い友好的な歴史があり、一時は不幸なできごとがありましたが、すでに過ぎ去りました」(中略)

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 鄧小平副総理は、「われわれもこの条約は深遠な意義をもっていると考えております。過去のできごとは、すでに過ぎ去りました。今後、われわれは前向きの態度で両国の平和な関係を樹立しなければならなりません>(1978年10月24日)。

『人民日報』の報道では、天皇の「不幸なできごとが過ぎ去りました」という発言を受けて、鄧小平が「過去のできごとは、すでに過ぎ去りました」と応じた、と伝えている。

ところが日本の報道はこの先後関係が入れ代わっている。たとえば『朝日』はこう解説した。<天皇陛下が「一時、不幸な出来事」と短い言葉ながら、日中関係の過去について、中国の指導者に語られたのは初めてのことである。(中略)天皇陛下のこの発言は、鄧副首相が「過ぎ去ったことは過去のもの・・・」と述べたことに対しなされた>。Photo
 そのうえ、「宮内庁の見解」をこう伝えている。<会見に同席した湯川宮内庁式部官長は次のように語っている。陛下が会見で述べられたことは、「これからは長く両国の親善が進むのを期待します」ということが主眼で、「不幸な出来事」という過去を強調されていたものではない。

 鄧副首相が「過ぎ去ったことは過去のもの」と述べられたのに答えたもので、きわめて自然な雰囲気だった>(10月24日)。
『人民日報』と『朝日』など邦字紙の報道を比較すると、明らかに発言の順序が入れ代わっている。事実はどうであったのか。 会見の十三年後、すなわち一九九一年に出版された『入江日記』にはこう書かれている。
 まず一九七八年一〇月二三日、会見当日の日記である。
<鄧小平来日をめぐって昨日から今日にかけて右翼のデモ盛ん。馬鹿なことである。[湯川]官長、鄧氏につき申上げる。零時一〇分より半まで竹の間。(中略)あと午餐。二時過ぎ終る。竹の間で「不幸な時代もありましたが」と御発言。鄧氏は「今のお言葉には感動しました」と。これは一種のハプニング>(『入江相政日記』1984年223~24ページ)。

 この記述から会見の時間が約二〇分であること、天皇の「御発言」が先であり、鄧小平はこれに感動したという因果関係が分かる。しかも入江は「ハプニングが起こった」とコメントしている。
 六年後、すなわち一九八四年の「年末所感」にはハプニングの内容が次のように記されている。
<鄧小平氏の時に、陛下が全く不意に「長い間ご迷惑をかけました」と仰有り、それをうかがった鄧氏が非常に衝撃を受けたことを忘れることはできない>(『入江』241ページ)。

 天皇は外務省と宮内庁が打ち合わせたシナリオを無視して「全く不意に」、「迷惑」でわびたのである。天皇の突然の「御発言」に鄧小平が驚いたであろうことは容易に推測できよう。このエピソードは入江にとっても驚きであった。
  <あれは聞いていてこっちも体が震えたよ。私はその前に、当時の入江侍従長から、鄧小平さんのご会見のとき、真っ先に天皇陛下の方から、
「わが国はお国に対して、数々の不都合なことをして迷惑をおかけし、心から遺憾に思います。ひとえに私の責任です。こうしたことは再びあってはならないが、過去のことは過去のこととして、これからの親交を続けていきましょう」
と言われたと聞いていたので、そのことを尋ねたんです。
 答えは「その通りだ」ということだった。鄧小平さんは陛下のこのご発言を聞いて「電気にかけられたようだった」と表現していました。ややあって鄧小平さんは「お言葉の通り中日の親交に尽くしていきたいと思います」と答えられたそうです>(『田中清玄自伝』文藝春秋、1993年、288~289ページ)。

-END-