INPACT 麻生太郎の名言

麻生太郎の名言

麻生太郎

第92代内閣総理大臣。福岡県出身。学習院大学政治経済学部卒業後、麻生産業に入社。麻生セメント社長、日本青年会議所会頭などを経て政界に進出。経済企画庁長官、経済財政政策担当大臣、総務大臣、外務大臣、内閣総理大臣などを務めた。

福岡県飯塚市に麻生太賀吉・和子の長男として生まれる。麻生塾小学校を経て、小学3年生の頃上京し、学習院初等科に編入

世界での事業

当初は父親と親交があった水野成夫の伝手で産業経済新聞社に入社するも、スタンフォード大学の試験にも合格したため、一日も出社せず休職して海外留学を選んだ。帰国後は産経も退職して、1966年に実家の麻生産業(「麻生」の初期の中核企業 後に清算)に入社し、1960年代後半にブラジル、サンパウロに1年近く駐在していたことがあると本人は語っている。

その後、1970年から2年間に渡ってシエラレオネにて、同国のダイヤモンド産業国有化政策実施後に地元有力者から鉱区の提供を受けた麻生家の現地駐在員として、ダイヤモンド採掘業に従事していたが、シエラレオネ内戦勃発で帰国した。

帰国後

1973年にセメント事業の分社化の後にグループ中核企業となった麻生セメント(現:株式会社麻生)の代表取締役社長に就任。炭鉱業からセメント業への転換を成功させた。なお、麻生産業時代にまた、社長業の傍らで、1976年モントリオールオリンピックにクレー射撃の日本代表選手として出場(結果は41位)している。

政界へ

1979年10月、第35回衆議院議員総選挙に旧福岡2区(現:福岡8区)から出馬、4位(定員5名)で初当選し政界入りする。1982年、自民党青年局局長に就任。

2期務めた後、いわゆる田中判決解散後に行われ自民党が過半数割れした第37回衆議院議員総選挙で5位当選した共産党候補に2600票余り及ばず次点となり落選する。その後第38回衆議院議員総選挙で2位の社会党候補に3万6000票余りの差をつけトップ当選し国政に復帰して以降、現在まで全ての総選挙で選挙区当選している。宏池会に所属。

1996年には第2次橋本内閣の経済企画庁長官に就任し、初入閣。1999年1月、党内で長年所属した宏池会を離脱、河野洋平を会長とする大勇会(河野グループ)の旗揚げに参加。

2001年1月、不祥事により引責辞任した額賀福志郎の後任で、経済財政政策担当大臣に就任し、また、情報通信技術(IT)や新千年紀記念行事も担当した。4月、01年自民党総裁選に出馬し、小泉純一郎、橋本龍太郎、亀井静香と戦い31票で3位。その後発足した小泉政権では党政務調査会長を務め、その後、総務大臣、外務大臣を務める。

2004年9月に、国民年金保険料未払い期間があったことが判明している(1996年11月から2000年9月までの3年10か月間。経済企画庁長官就任時、国民年金への切り替えを忘れたため)。後に自身も未納期間があることが発覚した民主党代表の菅直人(当時)が「未納三兄弟」と呼称したうちの1人である。

詳細は「政治家の年金未納問題」を参照

2006年9月、06年自民党総裁選に立候補するも内閣官房長官(当時)の安倍晋三に敗れる(安倍:464票 麻生:136票 谷垣禎一:102票)。安倍新総理の下、引き続き外務大臣を務め、12月、河野グループが解散し、新たに為公会(麻生派)を結成、会長に就任する。

2007年3月20日、衆議院議員在職25年を迎え、衆議院より院議をもって表彰された。同年8月の内閣改造、党役員人事で、幹事長就任するも、ほどなく安倍が退陣を表明。9月、07年自民党総裁選に立候補し、党員票では福田康夫を僅差で上回ったが、133票差で敗れ(福田:330票 麻生:197票)、1ヶ月で幹事長の座を退く。

翌2008年8月、再び幹事長に就任するも、またしてもひと月後に、総理、総裁の福田が退陣を表明。同年9月の08年自民党総裁選に4度目の立候補をし351票を獲得。自民党総裁に就任する。9月24日、第92代内閣総理大臣に就任。麻生内閣を組閣する。首相就任の際、「日本を明るく強い国にする」と述べた。

2009年8月1日、1977年に横田めぐみが北朝鮮工作員に拉致されたとされる新潟市内の現場周辺を、現職首相として初めて視察した。

2009年8月30日、第45回衆議院議員総選挙で自由民主党が惨敗、衆議院第1党の座から転落。同日夜に退陣を表明。9月16日、自由民主党総裁を辞任。同日の臨時閣議にて内閣総辞職を決定。政権を最大野党党首で同選挙で300を超える議席を獲得した民主党代表の鳩山由紀夫に明け渡した。麻生は第二次世界大戦終結以前に生まれた最後の内閣総理大臣となった。

野党時代の2012年自由民主党総裁選挙では続投を表明していた谷垣禎一総裁に造反する形で出馬した幹事長の石原伸晃を批判して安倍晋三を支持した。

2012年12月16日の第46回衆議院議員総選挙で自民党が政権を奪還。まもなく成立した第2次安倍内閣では副総理兼財務大臣兼金融担当大臣として再入閣した。首相経験者の入閣は第2次森改造内閣(中央省庁再編後)に宮澤喜一が財務大臣、橋本龍太郎が沖縄及び北方対策担当大臣兼行政改革担当大臣として入閣した時以来となる。また、首相経験者が副総理として再入閣するのは第1次吉田内閣の幣原喜重郎以来である。また、内閣総理大臣退任後に財務大臣に就任したのは宮沢喜一以来2人目である。

2017年7月、為公会が番町政策研究所などと合流し志公会(麻生派)が発足、会長に就任。

祖父・吉田茂は、私が幼い頃、よくこんなふうに語っていた。
「日本人のエネルギーはとてつもないものだ。日本はこれから必ずよくな る。日本はとてつもない国なのだ」----。
日本の底力はまだまだ凄い!
「この国の底力を信じてみようじゃありませんか」
格差社会、少子化、教育崩壊…。
メディアでは暗い話ばかりが喧伝されるが、日本は本当にそんなに「駄目な国」なのだろうか。
戦後、一度も戦争をせず、努力の末、経済的繁栄を実現した。
トヨタ、ソニー、カラオケ、マンガは言うまでもないが、日本人が考えている以上に日本は評価され、期待もされている。
悲観していても何も始まらない。
「日本の底力」をもう一度見つめ直し、未来を考えるための一冊。


次期総理の呼び声も高い麻生太郎。その原点は祖父として身近に接していた昭和の名宰相・吉田茂にあった。小学生の孫にサンフランシスコ講和条約を語るかと思えば、周囲に見せる好々爺としての意外な一面。政治家・麻生を育んだ吉田茂の流儀とは。巻末に“秋葉原の名演説”ほか講演を収録。

Tarou Asou

麻生太郎

麻生太郎、あそう・たろう。日本の政治家。

麻生太郎の名言

生きていく上に大事なことは朝は希望を持って目覚め、昼は懸命に働き、夜は感謝と共に眠る。その気持ち。

医療費に関する名言
「食いたいだけ食って、飲みたいだけ飲んで、糖尿病になって病院に入っているやつの医療費はおれたちが払っている。公平ではない。無性に腹が立つ」「10万円あげるといえば全体の医療費は下がる」

治安に関する名言
「日本ほど安全で治安の良い国はない。ブサイクな人でも美人でも、夜中に平気で歩けるのだから」

「麻生大臣、人間が生きる上で2番目に大事なものはなんだと思われますか」
これは衆議院予算会議で山本太郎議員が麻生太郎大臣に質問した言葉です。これに対して麻生太郎が答弁した内容が名言と言われています。

「私はこの種の訳のわからない質問がきたときは答えることは1つ。生きていく上に大事なことは朝は希望を持って目覚め、昼は懸命に働き、夜は感謝と共に寝る。その気持ちだと思います。」

麻生太郎のヤジへの名言
ヤジは政治家に対して、色々な方面からぶつけられることがあります。そのようなヤジに対しても、時には知的に、時にはユーモアを持った発言で対応しています。ヤジに対しての名言にはどのようなものがあるのでしょうか。

「日本の借金は経済をわかっていない奴が煽っているだけ」

国の借金問題に対し「日本が破たんする」とマスコミが煽り、騒ぎ立てる政治家や人々のヤジに対して一喝を入れた名言です。

国の破たんに対して麻生太郎は完全に否定し、その理由について「日本国債の現状は“家庭内のでの貸し借り”と同じ」という視点でゆっくりと誰にでもわかるように丁寧に説明をしました。

「It is not japanese machinery, no?」「私は、日本と日本人の底力に一点の疑念も抱いたことがありません。」


2008年、麻生さんが内閣総理大臣だったときに国連総会で演説しました。その途中、機械のトラブルで聴衆に演説が届かなくなります。麻生さんはすかさず上記の「日本製じゃないよね?」と発言。聴衆は当意即妙のジョークに拍手を送りました。

「今の質問は、いい質問です。」


2013年の参議院予算委員会で、植松議員に公共事業の在り方について質問された際にこう話し始めました。正確には「誠に……与党の質問として伺うべきところじゃないかと思うくらい……」というのが前に付きます。野党の質問を褒める与党議員はあまりいないですので、この麻生さんの言葉は目立ちますね。

「ロシアでも頭のいいやつはあまり背が大きくないんだな。」


ネットでは、プーチン大統領が笑っていて、麻生さんが笑いながら自分の肘で突っ込みを入れている写真をよく見ます。このとき、麻生さんは(英語で)こう言ってプーチン大統領の爆笑を取ったのだそうです。「あいつ(プーチンが)すごく喜んだ」そうです(笑)。

「友好のために国益を損なうのは愚かです。国益のために友好が成り立つのだと思っています。」


2006年2月14日の国会答弁の際の麻生さんの言葉です。「国益と友好をどう考えるのか」が明確に語られています。

「日本はいつでも必要なリーダーシップを取る用意がある。」
2008年、世界的に起こった金融危機に対応するため、ワシントンD.C.でサミットが開催されます。それに先立ち、ブッシュ大統領から当時内閣総理大臣であった麻生さんに連絡が来ます。それに答えた時の言葉です。

「情けは他人の為ならず。巡り巡って己が為。」
2006年の年頭所信表明演説での言葉です。国会議員や首相というよりも人として納得できる話ですよね。

「マンガは愛。マンガは友情。マンガは人の成長。マンガはすべてを表します。」
2007年、国際漫画賞の発足に寄せての言葉です。漫画好きな麻生さんらしい言葉ですね。かつてこれほど漫画を愛する国会議員がいたでしょうか。

「面白く答えますと問題になりますんで、つまんなく答えさせていただきます。」

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