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手塚治虫の名言

手塚治虫

1928年(昭和3年)11月3日、大阪府豊能郡豊中町(現在の豊中市)に長男として生まれる。本名は手塚治(読み同じ)。

治が5歳のときに一家は兵庫県川辺郡小浜村(現在の宝塚市)に移る。

少年時代、当時珍しかった手回し映写機が家にあり、治は自宅でチャップリンの喜劇映画やディズニーのアニメ映画をよく観た。また、家には母が買い与えた200冊もの漫画本があり、治は見様見真似で漫画を描くようになる。

この時期、治は友人の影響を受けて昆虫、科学、天文学に興味を持つようになる。甲虫のオサムシの存在を知り、それにちなんでペンネーム「手塚治虫」を使い始めた。

1941年、手塚治虫が中学校に入学した年に太平洋戦争が勃発。この時期、仲間内で作った同好会の会誌などで漫画を執筆したり、イラストレーションによる図鑑を自作するなど精力的に活動。

1944年、15歳の手塚治虫は体の弱い者が入る強制修練所に入れられ、学校に行く代わりに軍需工場に駆り出された。

1945年には勤労奉仕中に大阪大空襲に遭遇、頭上で焼夷弾が投下されるも九死に一生を得る。同年、大阪帝国大学附属医学専門部に入学。

終戦後の1946年、17歳の手塚治虫は子供向け新聞に4コマ漫画の連載を開始。

その後、漫画家の酒井七馬が手塚治虫の才能を見出し、長編ストーリー漫画『新寶島』を合作。1947年に出版され、ベストセラーとなった。

漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、教授から医者よりも漫画家になるように忠告される。母の後押しもあって、手塚治虫は専業漫画家になることを決心。大学は辞めずに卒業し、その後、23歳のときに医師免許を取得している。

1950年、22歳の手塚治虫は『ジャングル大帝』の連載を開始。翌年には『鉄腕アトム』の前身となる『アトム大使』を連載するなど多数の雑誌で連載を始める。

1952年、手塚治虫は上京し、翌年に豊島区のトキワ荘に入居。その後、寺田ヒロオ、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らが続々と入居し、トキワ荘は漫画家の一大メッカとなった。

1959年、30歳のときに手塚治虫は結婚。

1961年、手塚治虫は自身の手塚プロダクションに動画部を設立(後の虫プロダクション)。日本初のテレビアニメーションシリーズ『鉄腕アトム』の制作を開始。鉄腕アトムは大人気作品になった

1967年には『ジャングル大帝』がヴェネツィア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞。

しかし、次第に手塚治虫は古いタイプの漫画家とみなされ人気も低迷。1973年、手塚治虫が45歳のときに虫プロダクションが倒産し、巨額の借金を背負う。

手塚治虫は作家としての窮地に立たされていた1968年から1973年を「冬の時代」であったと回想している

しかし、1973年に連載開始された『ブラック・ジャック』やその後の『三つ目がとおる』がヒットし、手塚治虫は本格的な復活を遂げることになる。

手塚治虫は100歳まで描き続けたいと言っていたが、59歳のときに体調の悪化により入院し、胃癌と判明する。彼は病院のベッドでも仕事を続け、最後まで仕事への執着心を無くさなかった。

1989年2月9日、手塚治虫は60年の生涯を閉じる。「頼むから仕事をさせてくれ」が手塚治虫の最後の言葉であったという。

Osamu Tezuka

手塚治虫


日本の漫画家、アニメーター、医学博士。「漫画の神様」と称される。
国: 日本
生: 1928年11月3日
没: 1989年2月9日(享年60)

手塚治虫の名言

医者は生活の安定を約束していた。しかし、僕は画が描きたかったのだ。

一攫千金は偽りの成功。真の人生の勝負は、じっくり腰を落ち着かせてかかるべきだ。

合理化はゆとりや遊びの空間を消して、むしろ人を遠ざけることになります。

漫画に必要なのは風刺と告発の精神である。

君たち、漫画から漫画の勉強するのはやめなさい。一流の映画をみろ、一流の音楽を聞け、一流の芝居を見ろ、一流の本を読め。そして、それから自分の世界を作れ。

「ダメな子」とか、「わるい子」なんて子どもは、ひとりだっていないのです。もし、そんなレッテルのついた子どもがいるとしたら、それはもう、その子たちをそんなふうに見ることしかできない大人たちの精神が貧しいのだ。

反戦だの平和だのの政治的なお題目では、子供はついてこない。率先して生命の尊厳から教えていく姿勢が大事。

時代は移り変わっても、子供たちの本質は変わらない。

子供は、その時点時点で常に現代人であり、また、未来人でもある。

僕の体験から言えることは、好きなことで、絶対にあきないものをひとつ、続けて欲しいということです。

人を信じよ、しかし、その百倍も自らを信じよ。

数えきれないほど、悔しい思いをしてきたけれどその度にお袋の「我慢しなさい」って言葉を思い浮かべて、なんとか笑ってきたんです。

人間は何万年も、あした生きるために今日を生きてきた。

人生は一人じゃない。二人三脚で走らねばならんこともある。

終始一貫して僕が自分の漫画の中で描こうとしてきたのは、次の大きな主張です。「命を大事にしよう!」

睡眠は三日間で三時間。こんなつらい仕事を四十年続けるなんて、馬鹿じゃないとできないですよ。

日本の明日を担う子供達に、こんなものを読ませるのですか?

子どもに殺しを教えることだけはごめんだ。世界中の子どもが正義だといって殺しを教えられたら、いつか世界中の人間は全滅するだろうな。

現代の教育は、どこか衰弱しているというか、勘違いでもしているようだ。

自然への畏怖をなくし、傲慢になった人類には必ずしっぺ返しが来る。

今は失われてしまったそれらは、しかし、決して取り戻せないわけではないのです。

井の中の蛙を決め込んでいるのは、敗北だと思う。

最後まで努力をするってのが、本当の生き甲斐ではないでしょうか。

インプットがないのに、アウトプットは出来ません。

物語はここから始まるのだ。

好奇心というのは道草でもあるわけです。確かに時間の無駄ですが、必ず自分の糧になる。

後世に残る作品をなどと気張らず、百歳まで描きたい。

人の命なんて、心配してもしなくても、終わる時には無情に終わるもの。

人間の「善」が、常に「悪」よりも先んじてほしいものです。

今ここで自分が描かなければ誰が描くんだろう。

仕事に強い信念と情熱を長く持ち続けられる女性。しかも世の中すべてに、やさしい愛を注げる心の広い女性…。それをぼくは望みます。

人間は、生きている間に、なぜもっと素晴らしい人生を送らないのかなぁ。素晴らしい満足しきった人生を送れば、死ぬ時にそんなに苦しまなくたっていいんだろうなぁ。

人の後をついていたら安全というのは、この世界じゃ通りません。

40年間負けん気でもってたみたいなもんです。逆に言うと、劣等感や怯えがあったから、続いたともいえるんですね。

名声も財産もできてあぐらをかいてしまうと、逆に面白くなくなるわけです。

仮病は、この世でいちばん重い病気だよ。

ぼくたちは、かけがえのない地球に「同乗」している、仲間です。

– END –