INPACT 佐藤琢磨の名言

佐藤琢磨の名言

佐藤琢磨

海外で活動する日本人のレーシングドライバー。2002年から2008年までF1に参戦し、2010年からはインディカー・シリーズに参戦。2017年に、日本人として初めて(アジア人としても初めて)インディ500での優勝を果たした。東京都新宿区出身。身長:164cm、体重:59kg。血液型:RH+ A型。マネジメント契約先はスポーツビズ。

「琢磨」と下の名前で呼ばれる事が多い。英語圏での愛称は“Taku”。早稲田大学人間科学部中退。 2012年より中日本自動車短期大学客員教授を務める。

和光学園高等学校卒業後、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に入学。

10歳の時に鈴鹿サーキットで初めてF1を観戦したことからモータースポーツに対して強い憧れを抱きつつも、19歳までは自転車競技に身を投じていた。部の無かった高校に部を立ち上げ、顧問一人部員一人で競技開始。

94年、インターハイ優勝。95年、インターカレッジ、2位。同年の国体、6位。96年、全日本学生選手権優勝などの記録を残している。

1996年、ホンダと鈴鹿サーキットがフォーミュラカーを用いたレーシングスクール、鈴鹿サーキット・レーシング・スクール・フォーミュラ(SRS-F)を設立したことを知ると、モータースポーツの世界に飛び込むことを決心。大学を休学して、まずはカートを始め、モータースポーツ歴わずか半年で、選抜方法を変えさせてまでして競争率10倍の難関を突破してSRS-Fへ入学した。他の上位の受講生達と同じく時には講師陣を上回る速さを見せた。1997年首席で卒業。

Takuma Satoh

佐藤琢磨

佐藤 琢磨
国籍 日本
出身地 東京都新宿区
生年月日 1977年1月28日(41歳)

佐藤琢磨の名言

「賞金もボーナスも出るし、2位でいいじゃん」と言われたとしても、2位では納得できない。「誰よりも速く走りたい」という貪欲さがあるからこそ、スピードへの恐怖心に打ち勝ってアクセルを踏めるし、テクニックを追求し続けられる。

自分の弱い部分を見つけることが強くなれるチャンス。僕はいまだに弱い部分がたくさん出てきます。

結果を出し続けられたのは、目標を達成する期限を設け、そこから逆算して準備を進めていたから。準備なしでは、いつ巡ってくるか分からないチャンスをつかむことはできません。

すべてのチャンスを掴んでいるのではなく、1回の成功の裏には10回以上の失敗がある。だから諦めずにチャレンジすることが大事。

チャンスは誰にでも平等にあると思いますが、自分にとって適切なタイミングで巡ってくるとは限らない。であれば、自分でチャンスを取りに行くしかない。

努力や苦労をしたっていう記憶はないんです。ただ、速くなりたい、上手くなりたいという一心でした。

マシンにはデータロギングシステムが積まれているんですけど、そのデータは徹底的に見て分析しましたね。ほかの誰よりも。

僕は全然天才じゃない。天才だったら、一発で、ターゲットというか、行きたいところに行けるでしょう。僕は、がむしゃらに背伸びしてトライしてアタックして、ようやくそこに到達できるんです。

僕には競技場でのレース経験が足りなかったから、真っ向勝負では歯が立たないかもしれない。だから、分析に分析を重ねて作戦を練って、後は思い切りアタックする。それしかなかった。

予測不可能な展開がたくさんあり、ドライバーはそんな環境の変化に順応できるタフさが必要。でも苦労というより、面白いと思いました。自分が何とかしなきゃという責任感が、探究心や達成感につながりやすい。面白いと思えなかったら、インディ500での優勝もなかったかもしれません。

転機では必ず、僕は行動を起こしてきました。「ノーアタック、ノーチャンス(挑戦なくして、チャンスなし)」の精神です。F1シートを失ったあの時も、他のチームと交渉しながらトレーニングを続け、いつでもレースに復帰できるように準備していました。

勝つために必要だと考えた準備と咄嗟の判断が、優勝に繋がったのだと思う。

頂点って見えない。限界という線を引きたくないんです。まだ足りないものはたくさんあると思っています。

モータースポーツのコックピットって完全な非日常なわけです。一番自分らしく生きられる場所であり、本当に楽しくてやめられない場所なんです。

自分としては案外楽しんでいました。レースができているというひとつがあれば、あとはなんでもいいんです。
【覚書き|英国に単身で渡り、F3からF1を目指したとき、言語、習慣の違いで数多くの苦労を体験したことを振り返っての発言。】

何事も挑戦する前にダメと決め付けるのがすごく面白くなかったんです。後悔だけはしたくない。なんていうんでしょう。僕は好きなことを見つけたら、トコトン入ってしまうんです。
【覚書き|20歳で自転車競技からF1に転向する決意をし、大学を中退して鈴鹿サーキットレーシングスクールフォーミュラに飛び込んだときを振り返っての発言】

努力や苦労というよりも、むしろ楽しんでましたね。ずっと夢に見てきたことが目の前にある嬉しさのほうが強かった。それに、これだけの環境にいてダメだったら諦めようって覚悟してたから、当たり前のことをしてる感覚だったんだと思います。

1番でゴールフラッグを受けた瞬間は、夢のようでした。ドライバーが注目されがちですが、メーカーやメカニック、エンジニア、無線で適切な情報をくれるスポッターや監督、チームメートなどの完全なチームワークで勝ち取った勝利。いい時も悪い時も見守ってくださったファンの方々を含め、その夢を皆でかなえたことが、何よりも心震えました。

人間ですから失敗すれば落ち込みますよ。でもたいていの問題は時間が解決し、立ち直れるように人間はできています。僕は自分に都合のいいように解釈できるタイプですし(笑)。「この悔しくて嫌な思いをする原因は何か」「なんだ、じゃあこうすれば解決できる」と分析すれば、気持ちがぱっと明るくなる。

20歳という後発スタートでF1レーサーを目指し、5年という短期間でF1のシートを得られたのは、チャンスをつかむために必要だと考えた準備を徹底し、自分から門を叩くように何度もチャレンジし続けた結果。チャレンジこそがチャンスを生みだします。そんな実行力が運も引き寄せたのかもしれません。

カリキュラムが終わった後に隣接するテクニカルセンターに入れてもらって、夜遅くまでデータを分析してました。例えば1周のラップタイムでは僕が勝っていても、僕のほうが遅い区間とか場所が必ずある。まだ詰められる余地があるんですよ。それを細かく洗い出して、次の走行のときには少なくとも同じスピードに乗せるっていう作業をずっとやっていました。

20代に比べたら部分的な身体能力は劣るはずですが、あまり感じないですね。視力の衰えもありません。(40歳になって)唯一少し感じるのはケガが治りにくい、疲れが取れにくいということだけ。メンタルもフィジカルも実際に上がっているし、体力が横ばいだったとしても経験値は増えているので、総合的なパフォーマンスは上がっていると言えます。特に経験値はレース中の一瞬の判断を左右するので。

環境を変えて成功するか否かは、結局は自分次第。F1での実績があるとはいえ、インディカーに移ってすぐ成功するようなそんな甘い世界ではないと自覚していたからこそ、中途半端なモチベーションなら挑戦しない方がいいと思いました。しっかりと準備して、態勢を組んで挑戦することが結果につながる。自分がワクワクしないと、車も人の心も思い通りに動かせませんから。

F1チームのテストドライバーを選抜するオーディションで、前々年度の英国F3チャンピオンと勝負して勝ったことがありました。そのとき、英語によるコミュニケーション能力や技術知識なども、チームにアピールしました。もしそれができていなかったら、選ばれていなかったかもしれないし、当初の計画通りに、F1の舞台に立てていなかったかもしれない。

(鈴鹿サーキット・レーシング・スクールでは)年齢的にも一番崖っぷちだったからか、どの生徒よりも貪欲でした。ドライバーの役割は、車の性能を100%近く引き出し、ムダなく走らせること。それを追求するために、全生徒の走行データを先生に頼んで見せてもらいました。自分のデータと見比べ、自身の劣っている点を明確にし、それを高めるためにすべきことを分析して実践しました。

なかなか危険な子供でしたよ。自転車でどこでもカッ飛んでましたから。いつも膝小僧とか擦り剥いてましたね。好きなことしか見えなくて、性格的には0か1か。だから、その中に目標が生まれたら、成し遂げるためにはどうしたらいいのか、成長するにつれて次第に考えるようになっていったと思います。

F1はメルセデスやフェラーリ、レッドブルに乗らないと、現実的に優勝は難しく、チャンスは平等とは言えませんが、インディカーは誰にでも優勝のチャンスがある。実際に、ペンスキーやガナッシのようなトップチームは、4~5人のドライバーが協力し合う複数台体制でしたが、2013年に僕が優勝した時に所属していたのは、1台体制の小さなチームでした。アメリカンドリームがつかめる。そう考えるだけでとてもワクワクしました。でもF1を去ることに納得し、このワクワク感が出るようになるまで、2年かかった。言い換えれば、覚悟を持って次のステージに進むのに、僕にはこれだけの期間が必要だったのです。

チャンスをつかむためにいろんな扉を叩きまくりました。でも結局、F1復帰という扉は開かなかった。もがいても、自分ではどうにもならないことがあると実感したし、フラストレーションがたまりましたね。ただ、この時期があったからこそ、F1の素晴らしい面を見られたし、政治的な力が動くようなシーンも見ました。他のカテゴリーにも視線を向け、F1だけがレースじゃないと思えるようになった。たとえ復帰できたとしても、下位グループを走る所属先にしか受け入れられなければ、F1にはもう魅力を感じられないだろうと考えるようになっていました。

自分のドライビングテクニックだけでは勝てません。「このドライバーをチャンピオンにさせてやろう」という、メカニックをはじめとした様々な人たちの思いや魂が1つにならないと速くならないし、勝てない。実際、僕らの世界は1万分の1秒を競います。見た目は同じ車でも、何百個あるネジ1つの締め方次第で車の動きが変わってしまう。車のクオリティーをコントロールするのは人間なんです。だから、エンジニアやメカニックたちの考え方を知って、自分のことも知ってもらう濃厚なコミュニケーションが必須だと考えました。専門用語はもちろん、互いの意思や意見を伝え、理解し合い、彼らをやる気にさせる言い回しができるほどの語学力を身につけ、積極性や情熱を見せようと意識しました。

F1で1番になるには、10年近いキャリアが必要だと思いました。当時は37~38歳で引退する選手がほとんどで、ピークは25~35歳。自分の夢も必然的にその年齢でF1の舞台に上ることになりました。F1で優勝するレーサーは、飛び級のようなルートでステップアップする例が多く、憧れていたセナもブラジルから渡英し、英国F3を制してF1に上がっていた。僕も彼と同じように英国F3を制することを目標にしました。それも何年もかけるのではなく、2年で制覇して、圧倒的なインパクトを周りに与えたいと思いました。そのためにもF3に上がるまでを逆算し、渡英して1年半はジュニアカテゴリーに参戦して、土台を作るための修業期間だと考えました。

当時は書類審査で選考され、70人受けて(鈴鹿サーキット・レーシング・スクールに)入学できるのは7人だけ。周りはレーシングカートの全日本チャンピオンや欧州選手権に出場するような10代ばかりで、20歳という年齢制限ギリギリでカート経験が半年だった僕は、黙っていたら100%落とされると思いました。だから、説明会の日に「1分でいいからとにかく話を聞いて欲しい」とスクール側に面接を嘆願しました。運が良かったのは、僕の申し出を協議して70人全員を面接してくれたこと。モータースポーツでの実績がなかった僕は、7人の枠に入りました。

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