INPACT 福沢諭吉の名言

福沢諭吉の名言

福沢諭吉

1835年1月10日、摂津国大坂堂島浜(現:大阪市福島区福島)に豊前国中津藩の下級藩士の次男として生まれる。

諭吉という名前は、儒学者でもあった父が『上諭条例』(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことにちなむ。

1836年、父の死去により大坂から帰藩し、中津(現:大分県中津市)で過ごす。諭吉は当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うという価値観はもっておらず、悪童まがいの溌剌とした子供だったという。

諭吉は5歳の頃から漢学と一刀流の手解きを受けはじめる。

1854年、19歳で長崎へ遊学して蘭学を学ぶ。黒船来航により砲術の需要が高まり、「オランダ流砲術を学ぶ際にはオランダ語の原典を読まなければならないがそれを読んでみる気はないか」と兄から誘われたのがきっかけであった。

幕末の時勢の中、無役の旗本で石高わずか40石の勝海舟らが登用されたことで、1858年、23歳の諭吉にも中津藩から江戸出府を命じられる。

諭吉は築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。この蘭学塾「一小家塾」が後の慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。

1859年、諭吉は日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜の見物に出かける。そこでは英語が用いられ、オランダ語がまったく通じないことに衝撃を受ける。英語の必要性を痛感した諭吉は、英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める。

1859年、24歳の諭吉は、日米修好通商条約に伴い派遣された咸臨丸の艦長の従者として渡米する。咸臨丸の指揮官を務めた勝海舟とはうまくいかず、晩年まで険悪な関係が続いた。

1861年、26歳で中津藩士、土岐太郎八の次女と結婚。1862年には翻訳方として欧州各国の使節団に同行する。途上、香港で植民地主義・帝国主義を目の当たりにし、イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受ける。

1863年に帰国後、『西洋事情』などの著書を通じて啓蒙活動を開始。幕府機構の改革を唱えた。

1868年、蘭学塾を慶應義塾と名付ける。明治維新後、諭吉も山縣有朋らから明治新政府への出仕を勧められたがこれを断り、自らは慶應義塾の運営と啓蒙活動に専念した。

その後も、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、伝染病研究所の創設に尽力。近世の教育に功績ある明治六大教育家の一人とされる。

諭吉は晩年も午前に3~4時間、午後に2時間は勉強し、また居合や米炊きも続け、最期まで無造作な老書生といった風の生活を送ったという。

1901年2月3日、諭吉は66年の生涯を閉じた。1984年から福沢諭吉は一万円紙幣表面の肖像に採用されている。

Yukichi Fukuzawa

福沢諭吉

日本の武士(中津藩士)、蘭学者、啓蒙思想家、教育者、慶應義塾の創設者。近世の教育に功績ある明治六大教育家の一人とされる。
国: 日本・摂津国大坂堂島浜(現在の大阪市福島区福島)
生: 1835年1月10日
没: 1901年2月3日(享年66)

スティーブ・ジョブズの名言

学問の本趣意は、読書に非ず、精神の働きに在り。

社会共存の道は、人々自ら権利をまもり幸福を求むると同時に、他人の権利幸福を尊重し、いやしくもこれを侵すことなく、もって自他の独立自尊を傷つけざるにあり。

ペンは剣よりも強し

難きを見て為さざるは、丈夫の志にあらず。

政治は悪さ加減の選択である。

進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む。

独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人にへつらうものなり。

学問は米をつきながらも出来るものなり。

空想はすなわち実行の原案

空想はすなわち実行の原案

未だ試みずして、先ず疑うものは、勇者ではない。

賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによって出来るものなり。

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。

行為する者にとって、行為せざる者は最も過酷な批判者である。

人間は、負けるとわかっていても、戦わねばならない時がある。だから、たとえ負けても勝っても、男子は男子なり。勝負をもって人物を評することなかれ。

自ら労して自ら食うは、人生独立の本源なり。

人は他人に迷惑を掛けない範囲で自由である。

自分の悪かったことに気が付いて改めるというのは立派なことだ。

浮世を棄つるは、即ち、浮世を活発に渡るの根本なると知るべし。

今日も、生涯の一日なり。

一度、学問に入らば、大いに学問すべし。農たらば大農となれ、商たらば大商となれ。

人は、生まれながらに、貴賤貧富の別なし。ただ、良く学ぶ者は、貴人となり、富人となり、そして、無学なる者は、貧人となり、下人となる。

顔色容貌の活溌愉快なるは人の徳義の一箇条にして、人間交際において最も大切なるものなり。

人生、万事、小児の戯れ。

読書は学問の術であり、学問は事業の術である。

結婚は人生の重大事なれば、配偶の選択は最も慎重ならざるべからず。

人生は芝居のごとし、上手な役者が乞食になることもあれば、大根役者が殿様になることもある。とかく、あまり人生を重く見ず、捨て身になって何事も一心になすべし。

信の世界に偽詐多く、疑の世界に真理多し。

私は軽蔑されて侮辱されても、その立腹を他に移して他人を辱めることはドウしてもできない。

自由と我儘(わがまま)との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。

活用なき学問は、無学に等しい。

一家は習慣の学校なり。父母は習慣の教師なり。

家の美風その箇条は様々なる中にも、最も大切なるは家族団欒、相互にかくすことなき一事なり。

親子だというても、親は親、子は子だ。その子の為に節を屈して子に奉公しなければならぬということはない。

妊娠中に母を苦しめ、生れて後は三年父母の懐を免れず、その洪恩は如何と言えり。

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