INPACT

山本五十六の名言

山本五十六

1884年(明治17年)4月4日、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現:長岡市坂之上町)に旧長岡藩士の六男として生まれる。当時の父親の年齢から「五十六」と名付けられた。

五十六は子供のころから負けず嫌いであった。また、少年時代にはアメリカ人宣教師の元で聖書の勉強をしたことがあるという。

五十六が中学生時代に10歳年長の甥(高野力)が病死。両親の「五十六が力に代わって立派な武士になってくれれば」という言葉により、五十六は軍人を目指す。

1901年、17歳の山本五十六は海軍兵学校に200名中2番の成績で入学。

日露戦争下の1904年、20歳の五十六は海軍兵学校を192名中11番の成績で卒業。五十六は少尉候補生として練習艦に乗船。

1905年1月、五十六は少尉候補生のまま装甲巡洋艦「日進」配属となり、5月27日、ロシア海軍との日本海海戦に参加。この海戦において五十六は左手の人差指と中指を欠損、左大腿部に重傷を負った。

その後、五十六は防護巡洋艦、戦艦、海防艦、駆逐艦と各艦に勤務。艦の勤務と並行して、海軍砲術学校と海軍水雷学校で教育を受ける。

1909年、25歳の山本五十六はアメリカに駐在。1911年、山本五十六は海軍大学校乙種学生を卒業すると海軍砲術学校と海軍経理学校の教官となり、同僚の米内光政(第37代内閣総理大臣 / 1880~1948)と盟友になる。

1913年、五十六が29歳のときに両親が死去。同年12月に五十六は海軍大学校に入学。

1916年12月に海軍大学校を卒業した五十六は腸チフスにかかり、療養中に発症した虫垂炎のため生命の危険に陥るが大手術の末に回復。

1917年7月、33歳の五十六は海軍省軍務局員を務めたのち、海軍教育本部第一勤務となる。同年8月、五十六は結婚。

1919年、35歳の山本五十六はアメリカ駐在を拝命。ハーバード大学に留学する。

1921年7月に帰国。五十六は軽巡洋艦「北上」副長、続いて海軍大学校教官(軍政学担当)に転じる。

その後、山本五十六は砲術から航空へ転科。1924年9月に霞ヶ浦航空隊付、12月に教頭兼副長に補される。五十六は航空機の操縦を学び、後に日本海軍の航空発展に深く関与するようになる。

1925年12月、41歳の五十六は駐米大使館付武官となって、再びアメリカに滞在。

1928年3月に帰国した五十六は8月から軽巡洋艦「五十鈴」艦長を務める。4ヵ月後に空母「赤城」艦長に就任。1929年、45歳の五十六は海軍少将に進級。

1930年、五十六は海軍航空本部技術部長に就任。航空主兵を強力に推し進めると同時に未熟だった日本海軍航空機の発展に尽力する。

1936年11月、日本はドイツとの間に日独防共協定を締結。翌月、52歳の山本は海軍次官に就任。

山本五十六は1940年9月に締結されることになる日独伊三国同盟に最後まで反対した。理由として米英との関係が悪化して支那事変解決が難しくなることや日ソ開戦の場合ドイツは距離が遠すぎて援助・支援が期待できないことなどがあった。

1939年8月、55歳の山本五十六は第26代連合艦隊司令長官に就任。五十六は連合艦隊司令長官に任官されることを拒み、次官として日米開戦を回避出来るように補佐することを要望したが認められなかった。

1940年、第二次世界大戦緒戦でナチス・ドイツはフランスを含めヨーロッパ全域を掌握。1940年9月、日本は日独伊三国同盟に調印した。

1941年8月、山本五十六は連合艦隊司令長官に再任。五十六は航空艦隊参謀長の大西瀧治郎にハワイ奇襲作戦の立案を依頼。もし日米開戦に至ってしまった場合、日本が「何か余程思い切った戦法をとらなければ勝ちを制することはできない」という理由からであった。

1941年11月、東條英機内閣は帝国国策遂行要領を決定し、御前会議で承認される。以降陸海軍は12月8日を開戦予定日として真珠湾攻撃を含む対英米蘭戦争の準備を本格化する。

12月1日の御前会議で対米宣戦布告は真珠湾攻撃の30分以上前に行うべきことが決定された。後に在米日本大使館員の不手際により、真珠湾攻撃が宣戦布告なしで行われ、アメリカ国民が激昂したことに山本五十六は心を痛めたという。

日本時間1941年12月8日未明、ハワイ真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対して攻撃。戦艦4隻が大破着底、戦艦2隻が大・中破するなど、大戦果をあげた。

真珠湾攻撃、イギリス海軍とのマレー沖海戦(1941年12月10日)に始まる南方作戦で成功を収めると、山本五十六は第二段作戦に取り掛かる。

1942年6月5日、アメリカ海軍とのミッドウェー海戦において、日本軍はミッドウェー島攻撃中に敵機動部隊から攻撃を受け、主力空母4隻を喪失する大敗北を喫する。

1942年8月、アメリカ軍はガダルカナル島に来襲して日本軍の飛行場を占領。連合軍とのガダルカナル島の戦いがはじまる。日本軍の航空機の損害はミッドウェーの約3倍、搭乗員の損失はそれを遙かに越えたものであり、ミッドウェー海戦と共に太平洋戦争における攻守の転換点となった。

1943年4月18日、山本五十六は一式陸上攻撃機にてブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空でアメリカ陸軍航空隊に撃墜され戦死。59年の生涯を閉じた。

Isoroku Yamamoto

山本五十六


大日本帝国海軍軍人。第26・27代連合艦隊司令官。元帥海軍大将。太平洋戦争前半の日本海軍の指揮を執った人物。真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦などの総指揮を執ったことから日本を代表する提督として海外でも知られている。ソロモン諸島ブーゲンビル島上空で乗っていた輸送機が撃墜され戦死。享年59歳
国: 日本(現在の長岡市坂之上町)
生: 1884年4月4日
没: 1943年4月18日(享年59)

山本五十六の名言

やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、ほめてやらねば、人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

苦しいこともあるだろう。言いたいこともあるだろう。不満なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣きたいこともあるだろう。これらをじっとこらえて行くのが男の修行である。

人は神ではない。誤りをするというところに人間味がある。

人は誰でも負い目を持っている。それを克服しようとして進歩するものなのだ。

百年兵を養うは、ただ平和を守るためである。

<内乱では国は滅びない。戦争では国が滅びる。/p>

男は天下を動かし、女はその男を動かす。

実年者は、今どきの若い者などということを絶対に言うな。なぜなら、われわれ実年者が若かった時に同じことを言われたはずだ。今どきの若者は全くしょうがない、年長者に対して礼儀を知らぬ、道で会っても挨拶もしない、いったい日本はどうなるのだ、などと言われたものだ。その若者が、こうして年を取ったまでだ。だから、実年者は若者が何をしたか、などと言うな。何ができるか、とその可能性を発見してやってくれ。

話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば人は育たず。

どんなことでも部下の失敗の責任は長官にある。下手なところがあったらもう一度使う。そうすれば必ず立派にし遂げるだろう。

私欲をはさまず、冷静に観察し数学的・科学的に分析すれば、ギャンブルの勝機は必ずわかる。

私にやれと言われれば、1年や1年半は存分に暴れてご覧にいれます。しかし、その先のことはまったく保証できません。
【覚書き|太平洋戦争直前、近衛文麿首相に戦争の見通しを聞かれたときの発言。山本氏は対米戦争には最後まで反対していた】

真の戦いはこれからである。奇襲の一戦に心驕るようでは真の強兵ではない。諸士は凱旋したのではない。次の作戦に備えるために、一時内地に帰投したのである。一層の警戒と奮励努力とを強く望む。
【覚書き|真珠湾攻撃成功から帰った直後の空母赤城での発言】

– END –