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織田信長の名言


1534年6月23日(天文3年5月12日)、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として生まれる。

生まれは勝幡城(現在の愛西市勝幡町~稲沢市平和町六輪)と那古野城(現在の名古屋市中区)の二説がある。

信長は2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけ(常識にはずれた人物)と称されていた。

1546年、信長は12歳で元服。1548年に父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三の娘と政略結婚。

1551年、信長が16歳のときに父が亡くなり、信長は家督を継ぐ。

1560年、信長が26歳のときに駿河国の守護大名・今川義元が尾張国へ侵攻。桶狭間の戦いで、信長は少数の軍勢で敵本陣を強襲し、今川義元を討ち取り、今川軍を退却させた。

桶狭間の戦いの後、信長は今川氏の支配から独立した徳川家康と手を結ぶ。

1572年、将軍・足利義昭の織田信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲斐の守護大名・武田信玄が甲府を進発。

織田・徳川連合軍は1573年の三方ヶ原の戦いで武田軍に大敗。しかし、信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ撤退した。

1573年、39歳の信長は足利義昭を京都から追放。室町幕府は事実上滅亡した。

1575年、長篠の戦いで、織田・徳川軍は武田軍に圧勝。

1575年、41歳の信長は、征夷大将軍に匹敵する官職の右近衛大将に任じられる。呼名も「上様」となり、朝廷より「天下人」であることを事実上公認されたものとみられる。

1582年6月21日、家臣・明智光秀の裏切りによる本能寺の変で織田信長は自害。信長は47年の生涯を閉じた。

三英傑の一人である信長の時代は終わり、その後は豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康の江戸幕府へと続く。

Nobunaga Oda

織田信長


戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。三英傑の一人。
国: 日本
生: 1534年6月23日
没: 1582年6月21日(享年47)

織田信長の名言

生まれながらに才能のある者は、それを頼んで鍛錬を怠る、自惚れる。しかし、生まれつきの才能がない者は、何とか技術を身につけようと日々努力する。心構えがまるで違う。これが大事だ。

必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ。

器用というのは他人の思惑の逆をする者だ。

臆病者の目には、敵は常に大軍に見える。

恃(たの)むところにある者は、恃むもののために滅びる。

人を用ふるの者は、能否を択ぶべし、何ぞ新故を論ぜん。

組織に貢献してくれるのは優秀な者よりも能力は並の上だが、忠実な者の方だ。

人は心と気を働かすことをもって良しとするものだ。用を言いつけられなかったからといって、そのまま退出するようでは役に立たない。その点、お前は塵に気付いて拾った。なかなか感心である。

戦に勝るかどうかと兵力は必ずしも比例しない。比例するかそうでないかは戦術、つまり自身にかかっているのだ。

人城を頼らば 城人を捨てん

理想を持ち、信念に生きよ。理想や信念を見失った者は、戦う前から負けているといえよう。そのような者は廃人と同じだ。

攻撃を一点に集約せよ、無駄な事はするな。

仕事は探してやるものだ。自分が創り出すものだ。与えられた仕事だけをやるのは雑兵だ。

およそ勝負は時の運によるもので、計画して勝てるものではない。功名は武士の本意とはいっても、そのあり方によるものだ。いまその方の功名は軽率な動きである。一方の大将となろうとする者は、そのような功名を願ってはならぬ。身の危ういのをかえりみないのは、それほど手柄と言うことはできない。今後はこの心を忘れるな。

愚かな間違いを犯したらたとえ生きて帰ってきてもワシの目の前に姿を見せるな。

人間の50年の生涯は儚いものだ。死なない者は存在しない。

是非に及ばず
※しかたがない。やむを得ない

– END –