INPACT 吉田松陰の名言

吉田松陰の名言

吉田松陰

1830年9月20日、長州萩城下松本村(現:山口県萩市)で長州藩士・杉常道の次男として生まれる。

1834年、4歳の頃、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、兵学を修める。翌年に大助が亡くなったため、叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受ける。

松陰は9歳で藩校・明倫館の兵学師範に就任。11歳のときに藩主・毛利慶親への御前講義によりその才能が認められる。

松陰はアヘン戦争(1840~1842)で清が西洋列強に大敗したことを知ると、山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感。1850年、20歳で西洋兵学を学ぶために九州に遊学した。その後、江戸に出て佐久間象山に師事。

1852年、松陰は友人と東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩の通行手形の発行を待たず脱藩。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受ける。

1853年、ペリーの浦賀来航を視察し、西洋の先進文明に心を打たれて外国留学を決意。長崎に寄港していたロシア軍艦に乗り込もうとするも失敗する。

1854年にペリーが再航した際には、漁民の小舟を盗んで伊豆下田港に停泊中のポーハタン号へ赴き、密航を訴えるが拒否される。松陰は自首し、長州へ檻送され幽囚される。

1855年、25歳のときに出獄を許され幽閉処分となる。1857年に叔父の松下村塾の名を引き継ぎ、松下村塾を開塾。久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、前原一誠、品川弥二郎らを教育する。

1858年、松陰は幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒。老中の暗殺を計画するも弟子らは反対して同調しなかったため計画は頓挫。

さらに、幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけたため、藩に危険視され、再び幽囚される。

その後、井伊直弼による安政の大獄が始まると、松陰は江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。松陰は尋問に際し老中暗殺計画を自ら進んで告白し、自身を「死罪」にするのが妥当だと主張。

井伊直弼の逆鱗に触れ、1859年11月21日、松陰は伝馬町牢屋敷にて斬首刑に処され、29年の生涯を閉じた。

Shōin Yoshida

吉田松陰

日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者、兵学者。明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者。
国: 日本・長州藩(現在の山口県萩市)
生: 1830年9月20日
没: 1859年11月21日(享年29)

吉田松陰の名言

学問とは、人間はいかに生きていくべきかを学ぶものだ。

過ちがないことではなく、過ちを改めることを重んじよ。

みだりに人の師となるべからず。みだりに人を師とすべからず。

人間はみななにほどかの純金を持って生まれている。聖人の純金もわれわれの純金も変わりはない。

一日一字を記さば一年にして三百六十字を得、一夜一時を怠らば、百歳の間三万六千時を失う。

至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり。

学問の上で大いに忌むべきは、したり止めたりである。したり止めたりであれば、ついに成就することはない。

今の世の中、優れた人物がいないと人は言うが、上の者が優れている人物を好むということさえすれば、人物がいないことを心配する必要はない。

奪うことができないものは志である。滅びないのはその働きである。

死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。

英雄はその目的が達成されないときには悪党や盗人とみなされるものだ。世の中の人から馬鹿にされ、虐げられたときにこそ、真の英雄かどうかがわかる。

利をうとんずるといふ事は、必ずしも富を厭ひ貧を欲するといふ事ではない。貧富によりて少しも心をみださないといふことである。

夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。

私心さえ除き去るなら、進むもよし退くもよし、出るもよし出ざるもよし。

道を志した者が不幸や罪になることを恐れ、将来につけを残すようなことを黙ってただ受け入れるなどは、君子の学問を学ぶ者がすることではない。

大事なことを任された者は、才能を頼みとするようでは駄目である。知識を頼みとするようでも駄目である。必ず志を立てて、やる気を出し努力することによって上手くいくのである。

人間には精気というものがあり、人それぞれに精気の量は決まっている。この精気なるものは抑制すべきである。抑制すればやがて溢出する力が大きく、ついに人間、狂にいたる。しかし、おのれの欲望を解放することによって、固有の気が衰え、ついに惰になり、物事を常識で考える人間になってしまう。

君子は何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、その上で行動する。小人は何事に臨んでも、それが利益になるか否かと考えて、その上で行動する。

人を観察するのは、目によってする。胸の中が正しいか、正しくないかは、瞳が明るいか、暗いかによって分かる。

教えるの語源は「愛しむ」。誰にも得手不手がある、絶対に人を見捨てるようなことをしてはいけない。

悔いるよりも今日直ちに決意して、仕事を始め技術をためすべきである。何も着手に年齢の早い晩いは問題にならない。

思想を維持する精神は、狂気でなければならない。

だいたいにおいて世間の毀誉(悪口と称賛)というものは、あてにならぬものである。

大器をつくるには、いそぐべからずこと。

小人が恥じるのは自分の外面である、君子が恥じるのは自分の内面である。人間たる者、自分への約束をやぶる者がもっともくだらぬ。死生は度外に置くべし。世人がどう是非を論じようと、迷う必要は無い。武士の心懐は、いかに逆境に遭おうとも、爽快でなければならぬ。心懐爽快ならば人間やつれることはない。

自分の価値観で人を責めない。一つの失敗で全て否定しない。長所を見て短所を見ない。心を見て結果を見ない。そうすれば人は必ず集まってくる。

平凡で実直な人間などいくらでもいる。しかし、事に臨んで大事を断ずる人物は容易に求めがたい。人のわずかな欠陥をあげつらうようでは、大才の士は、もとめることが出来ない。

敵が弱いように、敵が衰えるようにと思うのは、皆、愚痴もはなはだしい。自分に勢いがあれば、どうして敵の勢いを恐れようか。自分が強ければ、どうして敵の強さを恐れようか。

17、18の死が惜しければ、30の死も惜しい。80、90、100になってもこれで足りたということはない。半年と云う虫たちの命が短いとは思わないし、松や柏のように数百年の命が長いとも思わない。天地の悠久に比べれば、松柏も一時蠅(ハエのような存在)なり。

人を信ずることは、もちろん、遥かに人を疑うことに勝っている。わたくしは、人を信じ過ぎる欠点があったとしても、絶対に人を疑い過ぎる欠点はないようにしたいと思う。

どんな人間でも一つや二つは素晴らしい能力を持っているのである。その素晴らしいところを大切に育てていけば、一人前の人間になる。これこそが人を大切にするうえで最も大事なことだ。

法律をやぶったことについてのつぐないは、死罪になるにせよ、罪に服することによってできるが、もし人間道徳の根本義をやぶれば、誰に向かってつぐないえるか、つぐないようがないではありませぬか。

人間が生まれつき持っているところの良心の命令、道理上かくせねばならぬという当為当然の道、それはすべて実行するのである。

今日の読書こそ、真の学問である。

一つ善いことをすれば、その善は自分のものとなる。一つ有益なものを得れば、それは自分のものとなる。一日努力すれば、一日の効果が得られる。一年努力すれば、一年の効果がある。

志定まれば、気盛んなり。

決心して断行すれば、何ものもそれを妨げることはできない。大事なことを思い切って行おうとすれば、まずできるかできないかということを忘れなさい。

世の中には体は生きているが、心が死んでいる者がいる。反対に、体が滅んでも魂が残っている者もいる。心が死んでしまえば生きていても、仕方がない。魂が残っていれば、たとえ体が滅んでも意味がある。

学問をする眼目は、自己を磨き自己を確立することにある。

成功するせぬは、もとより問うところではない。それによって世から謗されようと褒められようと、自分に関することではない。自分は志を持つ。志士の尊ぶところは何であろう。心を高く清らかにそびえさせて、自ら成すことではないか。

賞誉されて忠孝に励む人は珍しくない。責罰されてもなお忠孝を尽す人物こそ、真の忠臣孝子である。武士たるものが覚悟すべきこと、実にこの一点にある。

親思う心にまさる親心。

満開となれば、やがて花は落ちる。太陽は南中すれば、やがて陰りはじめる。人は壮年を迎えれば、やがて老いていく。百年の間、必死で勉強すべきであり、ゆったりとくつろぐ暇などない。

– END –