プラトンの名言
古代ギリシアの哲学者である。ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師に当たる。
プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流であり、哲学者ホワイトヘッドは「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」という趣旨のことを述べた。
『ソクラテスの弁明』や『国家』等の著作で知られる。
現存する著作の大半は対話篇という形式を取っており、一部の例外を除けば、プラトンの師であるソクラテスを主要な語り手とする。
青年期はアテナイを代表するレスラーとしても活躍し、イストミア大祭に出場した他、プラトンという名前そのものがレスリングの師から付けられた仇名であると言われている。
紀元前427年、アテナイ最後の王の血を引く一族の息子として、古代ギリシアの都市国家アテナイに生まれる。アリストクレスと命名されたが、体格が立派で肩幅が広かったため、レスリングの師匠に「プラトン」(広いという意味)と呼ばれ、以降そのあだ名が定着した。
若い頃はソクラテスの門人として哲学と対話術を学び、政治家を志していたが、現実政治に幻滅し、政治への直接的な関わりは避けるようになる。
紀元前399年、師のソクラテスは「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」などの罪状で公開裁判にかけられる。ソクラテスは自説を曲げたり自身の行為を謝罪することをせず、死刑を言い渡された。
紀元前388年、39歳のプラトンはアテナイを離れ、イタリア、シチリア島、エジプトを遍歴。翌年、アテナイ郊外に学園(アカデメイア)を設立。アカデメイアでは天文学、生物学、数学、政治学、哲学などが教えられ、そこでは教師と生徒の問答によって教育が行われた。
紀元前367年、プラトンが60歳のときには、17歳のアリストテレスが入門し、プラトンが亡くなるまでの20年間学業生活を送った。
紀元前367年、プラトンの弟子ディオン(シュラクサイの政治家)の懇願を受け、シチリア島のシュラクサイへ旅行。シュラクサイの若き君主を指導して哲人政治の実現を目指すも、到着4ヶ月後にディオンが追放され、不首尾に終わる。
紀元前361年、66歳のプラトンはシュラクサイの君主自身からの強い要望によりシュラクサイを訪れる。しかし、再び政争に巻き込まれ、プラトンも軟禁される。その後、友人の政治家の助力を得て、辛くもアテナイに帰郷。
哲人政治の夢は、紀元前353年にディオンが政争により暗殺されたことによって途絶える。晩年のプラトンは、著述とアカデメイアでの教育に力を注ぎ、紀元前347年、80年の生涯を閉じた。
プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流であり、哲学者ホワイトヘッドは「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」と述べている。