マイルス・デイヴィスの名言

マイルスは、アメリカにおける人種差別問題には常に批判的であった。「白人によるアメリカ」を嫌悪しており「カストロはアメリカを批判するのに3日掛かると言ったが、俺なら2週間で出来るよ」と喧伝していた。マイルス自身も、人種差別の被害にあった経験があった。
また、「今生きている人間で最も大切な人を5人挙げてくれないか」とインタビューで聞かれ、「俺自身と弁護士のハロルド・ロベット、ギル・エヴァンスと妻のフランセス。あとの一人は50歳をこえたアメリカン・ニグロなら誰でもいい。みんな白人にひどい目に遭わされたのに我慢したからさ」と答えている。
しかし、音楽性の追求のためには人種は関係ないというスタンスを貫き通した。マイルスが一番の親友と称しているアレンジャー、ギル・エヴァンスには生涯に渡って強い影響を受けていた他、初期の名作『クールの誕生』にはリー・コニッツやジェリー・マリガンといった白人ミュージシャンを起用した。リー・コニッツを雇った際、当時主なマイルス音楽のリスナーだったアフリカ系アメリカ人層からは批判されたが、マイルスは「いいプレイをする奴なら、肌の色が緑色でも雇う[13]」と発言したと伝えられている。
第一期クインテット時代に、一時的にビル・エヴァンスをバンド・メンバーに迎え入れ、ビルは音楽的には貢献をしたものの、客による白人バッシングに耐えきれず、わずか1年程度で脱退した。1960年代末のエレクトリック導入期には、ジョー・ザヴィヌルやジョン・マクラフリンの存在抜きには考えられないほど彼らの才能を評価していたし、その後もチック・コリアやキース・ジャレット、デイヴ・リーブマンなど多くの白人メンバーが在席した。唯一のアジア系人種として、ピアニストのケイ赤城が1989年から2年間レギュラー・メンバーとして活躍した。70年代後半の休養期にも、日本人ピアニスト菊地雅章が未発表セッションに参加していた。
速い物を好み常にフェラーリなどのスポーツカーを乗り回していた。また彼曰く最速のスポーツである事から、ボクシングをたしなんでいた。この速さへのこだわりは車で移動すれば1時間のところを、飛行機に乗る事に固執し、3時間かかってしまった事にも現れている。1980年に復帰以降は、絵を描くことに没頭し、『スター・ピープル』のジャケットの絵は自分で描いた。