ウディ・アレンの名言
1935年12月1日、ニューヨーク市ブロンクス区のロシア系=オーストリア系ユダヤ人家庭に生まれる。幼年期は、母の姉妹やナチスの迫害から逃れてきた親類と生活を共にしたが、女性に囲まれた精神的かつ言語的に混沌としたものであった。
母はアレンに対して激しく叱責することもあったが、妹にははるかに穏やかな扱いであった。アレンは「大事にされている、愛されている」という感情が持てなくなり、現実逃避からコミックや映画、ジャズに傾倒するようになった。
一家は正統的なユダヤ教徒であり、アレンも8年間ヘブライ語学校に通ったが、これは彼の宗教嫌いに拍車を掛ける結果となった。
高校入学後、カード・マジックに傾倒したアレンは、16歳の時にマジシャンとして初舞台を踏む。しかし、その後は徐々にコメディに傾倒し、その道を志望するようになった。
アレンは高校在学中に新聞等にギャグを送り始め、筆名として「ウディ・アレン」を名乗るようになる。数々のギャグは誌上で紹介され人気を博し、これがエージェントの目にとまり、アレンは臨時雇いのギャグ・ライターという道を歩むことになった。
1953年、ニューヨーク大学に入学。映画製作を専攻したが授業の大半をさぼり、中退してしまう。その後、ニューヨーク市立大学シティカレッジ映画科に入り直したものの、さぼり癖はおさまらず、中退。
1955年、同級生の兄とマネージメント契約を結び、放送作家養成プログラムに参加。アレンはギャグ・ライターと放送作家を並行して行うことになった。しかし、放送作家という仕事に興味を持てなくなる一方で、続々舞い込む仕事に心を病み、1959年から精神科への通院を始める。
1960年から、アレンはスタンダップ・コメディアンとして活動を始め、人気を集める。アレンの評判を聞き、映画界からのオファーが飛び込み、アレンはその世界へと身を投じた。
アレンの映画は、生まれ育ったニューヨークの文化や暮らし、人々のメンタリティをテーマにすることが多い。ユダヤ人であることの差別とそこから来るコンプレックスや自己意識などを織り込んだコメディを得意としている。
彼の作品の多くは、アメリカ国内における興行成績は決して高くはないが、多くの人気俳優や女優が競って出演することでも知られている。また、フランスなどの国外においても非常に高い評価を受けている。