坂本龍馬の名言
1836年1月3日、土佐国土佐郡上街本町(現:高知県高知市上町)の郷士(下級武士)坂本家に次男として生まれる。坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、非常に裕福な家庭だった。
龍馬が生まれる前の晩に、母が龍が天を飛ぶ夢を見たことにちなみ、龍馬と名づけられる。
10歳のときに母が死去。龍馬は父の後妻に養育された。
少年時代の龍馬は気弱な性格であり、いじめにあって抜刀騒ぎを起こし、漢学の塾を退塾させられたという。以後、姉の乙女が武芸や学問を龍馬に教えた。
12歳で剣術道場に入門して小栗流を学び、17歳で小栗流和兵法事目録を得る。同年、龍馬は剣術修行のために江戸に出て、北辰一刀流の桶町千葉道場の門人となる。
龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の1853年7月、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航。龍馬も臨時招集されて品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。
1854年、18歳の龍馬は江戸修行を終えて土佐へ帰国。翌年に父が他界し、坂本家の家督は兄が継承。
1856年、再び剣術修行のため江戸に出て、武市半平太らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿。1858年に土佐へ帰国する。
1861年、武市半平太が土佐藩を尊王攘夷の方向へ導くため、土佐勤王党を結成。龍馬も加盟する。しかし、勤王党の尊王攘夷の主張は藩内の支持を得ることができず、1862年に龍馬は土佐藩から脱藩。
江戸に到着した龍馬は小千葉道場に寄宿し、長州藩の久坂玄瑞(1840~1864)、高杉晋作(1839~1867)らとも交流。その後、勝海舟(1823~1899)の門人となる。
1865年、29歳の龍馬は貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成。
1866年には、雄藩として大きな影響力をもつ薩摩藩(西郷隆盛)らと長州藩(木戸孝允)の同盟を斡旋。また、江戸幕府の終焉となる1867年の大政奉還の成立に尽力。倒幕および明治維新に大きな影響を与えた。
しかし、大政奉還成立の1ヶ月後の1867年12月10日、龍馬は近江屋事件で暗殺され、31年の生涯を閉じた。