勝海舟の名言
1823年3月12日、江戸本所亀沢町(現:東京都墨田区両国)に生まれる。
勝家は1575年以来の御家人であり、海舟の系譜上の高祖父が1752年に累進して旗本の列に加わった古参の幕臣であった。
海舟は幼少時に11代将軍・徳川家斉の孫となる一橋慶昌の遊び相手として江戸城へ召される。一橋家の家臣として出世する可能性もあったが慶昌は早世。
修業時代、海舟は剣術、禅、蘭学を学ぶ。また、蘭学者・佐久間象山の勧めもあり西洋兵学を修め、1850年、27歳で田町に蘭学と兵法学の私塾を開いた。
1853年にペリー艦隊が来航。開国を要求された幕府は海防に関する意見書を幕臣から町人に至るまで広く募集。勝海舟の意見書が老中の目にとまり、1855年、32歳で異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられて念願の役入りを果たす。
その後、長崎海軍伝習所に入門、5年間を長崎で過ごす。この時期に海舟は薩摩を訪れて薩摩藩主・島津斉彬(1809~1858)とも会っている。
1860年、幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節をアメリカ・サンフランシスコへ派遣。護衛を目的に咸臨丸も渡航、海舟も教授方頭取として乗船した。同船には、通訳のジョン万次郎、福澤諭吉らも乗船。
1862年、39歳の海舟は軍艦奉行並に就任。神戸に海軍操練所を作り、薩摩や土佐藩の脱藩者らも塾生となる。この塾頭が坂本龍馬であった。
勝海舟は、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指すが、保守派から睨まれて1864年に軍艦奉行を罷免。約2年の蟄居生活を送る。海舟はこの時期に西郷隆盛と初めて会っている。
1867年、徳川慶喜は大政奉還を建白。しかし、1868年に鳥羽・伏見にて旧幕府軍と薩摩藩との間で戦端が開かれ、薩摩藩・長州藩を中核とした官軍・新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦う戊辰戦争へと拡大。
1868年、官軍の東征が始まると、旧幕府は勝海舟を呼び戻し、陸軍総裁として全権を委任。勝は早期停戦と江戸城の無血開城を主張し、和平交渉が始まる。
まず、山岡鉄舟を西郷隆盛との交渉に向かわせて基本条件を整え、江戸城総攻撃の直前に勝海舟が西郷隆盛と会談、江戸城開城と徳川宗家の今後などについて交渉し、江戸城下での市街戦は回避された。
明治維新後も旧幕臣の代表格として、外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任。また、徳川慶喜を明治政府に赦免させることに尽力した。
1899年1月19日、海舟は75歳の生涯を閉じる。